1 ASDとRPG

 第1回はゲームのジャンルであるRPGをテーマにしてみます。RPGについての簡単な説明と分析をしたのち、ASDと紐づけていく構成です。

 少し堅苦しい内容かもしれませんが、このプロジェクトはこの方向性で頑張ってみようと思ってます。よろしくお願いします




1.RPGとは?

 まず最初に、そもそものRPG自体の説明をさくっとしてみようと思います。

 広義にRPG(ロールプレイングゲーム)とは、コンピューターゲームジャンルの一つで、主人公とその仲間がパーティ(集団)を組んで、世界中の街やダンジョンを冒険し、能力や装備を強化したりしながら、待ち構える敵たちと戦い、平和を目指すと言った感じのものです。勿論、作品により内容は様々ですが、概ねこんな形式です。

 お馴染みの 『ドラゴンクエストシリーズ』、『ファイナルファンタジーシリーズ』、『ポケットモンスターシリーズ』などが代表的な作品ですね。いずれも日本のみならず世界中での人気を誇り、ゲーム業界を牽引するジャンルの一つと言えます。

↑『ドラゴンクエストⅢ(のリメイク作品)』



 父親の影響により、僕は5歳くらいからドラクエを触っていたと思います。今時そうでもないかもしれませんが、どちらかと言えばゲームを触る年齢としては早かったような気もします。おまけに戦術ややりくりが多分に求められるRPGを、僕は感覚的にほぼ問題なくプレイしていました。今思えば、生まれながらの特性であるASDとRPGにはもしかすると親和性があったのかもしれません。





2.RPGらしい要素

 チャプター2では、RPGのRPGらしい要素たちを何個かピックアップして紹介してみたいと思います。


ⓐ規則性
 ゲームというもの自体に言えることかもしれませんが、特にRPGは規則性に満ちたデザインがなされていることが多いです。

 例えば、多くのRPGが採用している敵との戦闘におけるターン制システム。乱雑に攻守が交錯するのではなく、味方が1回行動したら、敵も1回行動するという大変秩序的なバトルデザインです。

 他にも整然としたゲーム画面表示にも美しい規則性が宿っていると感じます。

↑『スーパーマリオRPG』


 これはほとんど印象操作というかポジショントークなのかもしれないのですが、このスーパーマリオRPGを代表とする任天堂やスクエアエニックスのRPGは、本当に画面の中の情報認識がし易く設計されてるように感じます。(最近のアプリゲームとかオンライン系のゲームとか、一画面でとんでもない情報量なので……)。

 とにかくゲームの端から端まで、規則によって秩序的に表現されているものがRPGには多いイメージです。



ⓑコツコツ性
 RPGは他のゲームジャンルと比べると、コツコツやっていけばクリアできるように設計されていることが多いです。

 例えば、レベルという概念。敵を倒すと経験値が入手でき、その経験値が一定溜まるとレベルアップし、仲間たちが強くなっていくというものです。作品にもよりますが、このレベルは最大99ほどに到達するまではゲームの進行度合いに関わらずどんどん上げることができ、時間こそかかってもコツコツたくさんレベルを上げていれば、強敵であっても楽に倒せることもしばしばです。

 その分、突発的なプレイングスキルや運によって道が開けることは少ないとも言えますが、ある意味平等的なデザインだと思います。



ⓒ 適度な自由性
 かなり重要な要素だと思います。RPGにおける適度な自由性を語る前に、ゲームそのものの自由性、もっと言えばその手前の主体性みたいなものについて書いておこうと思います。

 1985年にファミコン用ソフトとして発売された『スーパーマリオブラザーズ』。その一番最初のコース、1-1のスタート画面を思い出してみてください。

 マリオは画面全体のやや左に立っており、顔は右を向いています。その先には広大なスペースがあり、手元にはいかにも右に進めそうなコントローラーの十字キー。これにより、多くの人間が、「右に進んでいくのだろう」と感じることができ、「早く右に操作したい!」というプレイヤー自身の主体性を促すことができるデザインになっていると聞いたことがあります(2019、玉樹)。
 ゲームのみならず、本当に素晴らしいデザイン、考え方だと思います。

 そして、この主体性を維持させるために、自由性という要素が大きく関わってくると思います。


 まず、RPGを分析する上でよく登場するものとして、”おつかい”という概念を紹介します。例えば、村に居る人々に話しかけると、「村長が悪い呪いにかかってしまって、それを治すには村の北にある洞窟の奥に咲く花の蜜が必要なんだけれど、あの洞窟には魔物がいっぱい棲んでいて近づけないんだ…… ああ誰か腕の立つ者はいないだろうか……」のような、いかにもプレイヤーにそれを実行して欲しいかのような仄めかしを口にしたりするのです。

 これにより、やるべきことがプレイヤーの中でもはっきりする反面、仄めかしが強すぎたり多用しすぎたりすると「なんかおつかいしてばっかりだな」という印象も持たれかねません。

 そう考えると、それとない示唆やシステムデザインによって、プレイヤーに選択肢や深層的動機をちょうどよく与えつつ、随所でプレイヤーそれぞれが持つ個性のグラデーションを受け入れられる余裕を持つみたいなことが、適度な自由性に繋がるのではないかと感じます。

 そういうバランスが、RPGはすごく丁度いいというか丁寧というか、そもそもそういう概念自体を生み出したのもRPGだったりしそうですが、とにかく心地よくプレイできる場合が多い気がするのです。



3.ASDと RPG

 最後に、チャプター2の要素たちをASDと紐付けて研究してみようと思います。


ⓐ’ I LOVE 秩序&フレーム
 僕は、物事や要素が規則的に並んでいたり、並列的で平等に扱われていたりすることにとても落ち着きます。反対に、物事や要素が乱立し無秩序だと、途端にそれらを認識することが難しくなり、まずはそれらを体系的に整えることから着手する傾向にあります。

 これはすごくニュアンスの表現なんですが、情報と情報とが直角に交わっていることが理想的だったりします。情報と情報とが直角に交わることが連なれば、やがてそれは美しいフレームを形成することになり、とても認識しやすくなります。

 例えるなら、ショーケースの中に美しく並んだミニカーのようです。ミニカーという基本的に同じ形のものが、同じ向きで綺麗に陳列され、縦と横が直角に交わるガラスの仕切りによって整理され、最後に蓋をされることによって体系的な情報群として大きな意味性、成立感を持つ……という感じです。

 このようにRPGは、情報群がショーケースの中で体系的に陳列されているように感じます。だから、僕が認識しやすいんだと思います。

 正直、何を言ってるか全然分からないと思うのですが、僕が生きている感覚を精一杯表現するとこうなります。

 というか、こういう文体と構成で文章を書くということ自体が、陳列的な世界で暮らしているという事実に他ならない気がしています。



ⓑ’ マメで真面目な人が報われる
 色々関わってくれている周りの人からすると、僕は結構マメで真面目みたいです。ただ、自分の実体験も含めた偏見を繰り出すと、そういう人って逆に損をしてしまったり、周りに付いていけなくなったりすることもよくある気がします。これも結局、マジョリティとマイノリティの話に発展していくのですが、今回はとりあえず置いといて、真面目な人って割を食うことも往々にしてあるよねぐらいの仮説でこの後の文章を展開させてください。

↑『ゼノブレイド ディフィニティブ・エディション』

 こういうゲームがありまして、最近ずっとプレイしていました。少しアクション要素があるゲームデザインですが、概ねRPGだと思います。細かい世界観のことは今回省きますが、何を言いたいかと言うと「マメな人が報われるゲームだったよ!」ってことなんです。

 RPGにはクエストというシステムがありまして、街の人なんかから依頼を受け、それを達成するとアイテムや装備が貰えて冒険が有利になるみたいな感じのものです。そういうクエストがこのゲームには山ほど用意されていて、「あそこであの人が困っていたな」とか「あそこのあれって解決したんだっけ?」みたいな僕のマメさや記憶力が結果的に冒険を大いに助けてくれたのです。

 丁寧すぎる生き方をすると、周りから置いていかれることもしばしばかもしれませんが、RPGの世界の中では飽くまで自分のペースを貫くことができ、且つRPG自体もそれを評価してくれたりします。素敵!



ⓒ’ 自己表現のカタチを探して
 ”適度な自由性”の前フリがどう自己表現に繋がるのか疑問かもしれませんが、何とか繋げてみたいと思います。

 昨今、チャプター2で紹介したこの”適度な自由性”を、脅かす存在が生まれました。”オープンワールドシステム”というものです。

 ”オープンワールドシステム”とは、冒険を始めた最初の段階からワールドマップが際限なく広がり、ストーリーを進める順番ですらプレイヤーに委ねられるような形式のゲームシステムです。

↑『ポケットモンスター スカーレット・バイオレット』

 ポケモンシリーズの最新作。従来の2Dの世界から大きく解き放たれ、立体的で広大なマップを自由に探索するゲームデザインに進化しましたが、その側面には余りにも果てしない冒険を強いられる苦しさも宿っていました……。

 勿論、こういうプレイヤーの好奇心や主体性を大きくくすぐるアプローチも楽しいものだと思いますが、近年開発されるほぼ全てのRPGがこういう形式を採用していく潮流には些か疑問が残ります。

 これは僕の偏った考えかもしれませんが、ゲームとは非社会的なものでないといけないと思うのです。オープンワールドシステムを採用してしまうと、ありとあらゆる物事たちに優先順位を付けなければいけなかったり、諦める箇所を作らないといけなかったり、自分で自分のお尻を叩かないといけなかったりと、すごく社会的な能力が求められてしまいます。その結果、「何かゲームの中でも働いてない?」みたいな感覚に襲われることもしばしばです。 “自由とは不自由だ”とはよく言ったもので、「今からずーっと何してもいいよ」と言われると案外困ったりする人も居るんじゃないでしょうか。


↑『ドラゴンクエストⅧ』


 僕のゲーム人生の原点であり頂点の作品です。広がる自然に対する好奇心がちょうど枯れないくらいのマップの広さに加え、様々な要素のデザインが丁寧で綺麗にフレームに収まっている感じがします。



 こう考えていくと、僕にとってRPGは自己表現、存在確認の大きなひとつであるように感じます。社会の中で暮らしていると、どうしてもマジョリティという物差しに基準を合わせられ、その接点には障害という概念が生まれてしまいますが、RPGという世界の中では、野放しにされるわけでもお節介を焼かれすぎるわけでもない絶妙なバランスで、僕の在り方をサポートしてくれている気がするのです。
 人間自体にも言えることですが、特にASDは自分の内側にあるものをどうやって表現、確認するかといったところに生涯翻弄されるもののような気がします。



 他人からは思いもしない場所で、その人は自己の何かを表現し、何かを確認しているのかもしれません。






 以上、多分に個人性や偏った論旨展開を含むコラムでしたが、僕の中ではある程度腑に落ちてたりします。

 第1回はここまで。読んでいただきありがとうございました。




【参考文献】
・『「ついやってしまう」体験のつくりかた』 玉樹真一郎 2019 ダイヤモンド社

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