ASDと映画へのアンサー

どうも。「かんりしゃ」です。
今回も、ASDの特性が出ていたといえば出ている、出ていないといえば出ていなさそうな、「ちゅん」らしい文章でしたね。
あいかわらず蛇足ですが、「かんりしゃ」の感想をアンサーとしてのせます。

映画をみると、誰かとしゃべりたくなります。
「ちゅん」も書いていますが、映画にはおおむね120分という時間的制約があるため、その制約が少ないフォーマットよりも、余白があることが多いと思われます。
その余白は、解釈や感想をうむものになりそうです。だから誰かとしゃべりたくなるのだと思います。
誰かと共有してはじめて(?)、自分の中に落とし込めるのかも?
映画評論とかが多いのは、これゆえなのかな?

「ちゅん」の文章を読んで、「ちゅん」の孤独に触れた感じもしました。「なんか寂しいんやろなー」と感じました。
なんか、ふれた映画を誰かと共有したりしたら、彼の中に映画が位置づけられそうにも思いました。

また、映画って映画館で見た方が良い派です。
わざわざ足を運び、劇場に入り、席を探して座って、スマホの電源切って、暗くなって、「みて」、明るくなって、スマホの電源いれて、会場の外に出て、ご飯のこと考える。
こんな一連の流れが「映画体験」だと思い、最も映画の魅力が体感できるのでは、と思ってます。
スマホでみると、いろんなほかの要素が入りすぎる。。。

物語の摂取は、その物語単体でなく、その体験の仕方が思い出となり、誰かとの共有が発見をうみ、物語+αのことが、自分自身に入ってくるような。この+αなく、物語だけの摂取はなんかむずそう。

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