5月のイラストです。
彼の生活やこれまでが、何か想像される絵たちですね。


5月のイラストです。
彼の生活やこれまでが、何か想像される絵たちですね。


はじめに
早いもので、第5回になりました。「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してもいいかな」のコンセプトで、インプットandアウトプットを記録しているブログです。
ⓐ「かんりしゃ」さんからの紹介 ラーメン屋『みつ葉 あべの出張所』
職員「かんりしゃ」さんから、こくりとも縁のあるラーメン屋『みつ葉』さんのつけ麺をオススメされました。
『みつ葉 あべの出張所』さんはあべのHoop地下1階のフードコートにあり、そこで提供される「割り箸」を箸袋に詰める作業を、こくりが仕事の一環として行っています。
なので、日頃から『みつ葉』『みつ葉』とはよく聞いていたわけですが、まだ食べたことがなく気になっていた僕にとって、これは良いニュアンスの自拡になりそうな予感がしました。
ということで、行ってきましたよ。いきなりですが、つけ麺の写真、どーん!

まず、僕たちに馴染みのある割り箸がちゃんとあったことに感動しました!君、ここに居たんだな……涙
そして、肝心の味ですが、すごく美味しかったです!麺も香りが豊かで食べ応えがあるし、スープも芳醇でクリーミーな味わいでした。チャーシューやカイワレなどのトッピングも良いバランスで花を添えており、一品として上手くまとまっているなと感じました。ごちそうさまです〜
と、総合的に良い食事体験になったわけですが、ここからは少し、僕にとって「行ったことのない飲食店で食事を試みる」ということのハードルについて解説しておこうと思います。
まず、前提として僕はかなり少食なので、飲食店で食事を行うときには、その量や刺激が予めすごく気になります。「食べきれるかな?」「しんどくならないかな?」といった身体的な不安……。常に頭の片隅にその意識があって、僕にとって食事という行動にはうっすらパズル性が帯びています。
加えて、ASDの研究ではよく語られる「常同性」という特性が僕にはあり、簡単に言えば「常に同じ行動/状態/状況/生活を望む」といったところでしょうか。つまりは、反復的な生活から逸脱して新しいことを試みるときに、大きな心理的負担/覚悟が伴うということです。こればっかりはなかなかニュアンスが伝わりづらいかもしれませんが、結構しんどいことなのです。
更に、フードコートってシステムが独特というか結構セルフサービスなんですよね。
どう列に並べばいいのか、食券システムならどう買ってどう伝えればいいのか、提供はどのカウンターで行われるのか、食器類はどこからどこまでセルフで確保するのか、食器はフードコートのどのゾーンまで持っていっていいのかetc……。
「そんなの何か大体でうまいことやればええやん」と言われそうですし、結果的にはある程度脈絡を読み取ってアジャストするんですけど、この予測できなさというか不透明さみたいなものは僕にとって馬鹿にできない心労だなと気づきました。慣れればよりオートマチックに食事にありつけるから、良い側面もあるんですけどね。
とまぁ、食事ひとつ取っても、これらの身体的/心理的な高いハードルが僕にはたくさん存在しており、それなりに大変ではあるのです。
実際、「かんりしゃ」さんに紹介をしてもらってから、随分と間が空いてから行くことになりました。何なら、前述のハードルを下げるために、一度下見にだけでも行こうかなとさえ考えていました。
結果的には、他の用事終わりにたまたまタイミングとコンディションが合ったため、一撃で食事をするところまで漕ぎ着けましたが、たかがフードコートの飲食店で食事を行うことに下見まで行こうと考える人間がどれだけいるでしょうか。
自分には困難がたくさんあるということをアピールしたいわけではないんですが、今回の、あくまで日常性の高い自拡体験によって、やっぱり一般的な人との感覚とは少しズレが有るのかもなと痛感した次第です。
皆さんは、新しいことや新しい食事を行うときに、どのような思いになりどのような影響がありそうですか?
ⓑ「かんりしゃ」さんからの紹介 映画『この世界の片隅に』
https://watch.amazon.co.jp/detail?gti=amzn1.dv.gti.373a53a4-960e-4971-acc6-f96e3da8a5e1&territory=JP&ref_=share_ios_movie&r=web
「かんりしゃ」さんから、アニメーション映画『この世界の片隅に』を紹介してもらいました。
原爆投下前後の広島を舞台に、主人公すずが工夫とユーモアを凝らして懸命に生き抜く様を描いた映画であり、かなりヒットした作品です。僕も存在自体は知っていました。
しかし、このコラムや『 #3「ちゅん」の『ASDと映画』 』でも度々書いているように、様々なことが「荷物化」しやすい特性の僕にとって、戦争映画というものはなかなかハードルが高い存在です。そのあたりがどう影響を受けるか……。ドキドキしながら、観てみましたよ。
さて、ただでさえ多くの切り口が含まれている映画だと思いますが、まず触れておきたいのは「戦争と生活の間を行く」ような絶妙なアプローチですかね。
こういう「戦争」をテーマにした作品は、基本「戦争」を正面から描いた反戦/啓蒙的アプローチが多いと思いますが、『この世界の片隅に』は少し異なります。
すずたちの「生活」は、「戦争」の影響を多分に受けていることに間違いはありませんが、その全てが悲哀や消耗として描かれているわけではなく、即ちどんな状況でも「生活」は「生活」として逞しく存在しているということでしょう。
かと言って、「戦争」を美化/肯定しているわけでも決してなく、折に触れて、殊にストーリー後半は「戦争」の凄惨な被害が言葉も出ないほどに重く横たわることになります。右手を失い、大切なものがバタバタと飛び去って行ってしまう中で、すずは苦しみを抱きながらも受容と反骨が入り混じったような態度で、その後も変わらず呉に「生活」することを選び取ります。
露骨にポジティブでもなく、露骨にネガティブでもなく、多くの戦争的背景を経由しながらも、最終的にはすずたちの「生活」にずっとスポットライトが当たり続けるという構成に独自のオリジナリティを感じました。
このアプローチは、明確に映画の属性を固定することによって間口を狭めてしまうことを回避しながらも、転じてだからこそ大きな「反戦」を表現することにも繋がっていると言えるでしょう。
次に、ここからは少し深読みですが、すずの「絵を描く」ということが縦軸となって様々な要素を含んでいそうだなと感じました。
すずというキャラクターの奥行きを担う役割でもあり、戦時中には最も無駄とされる「創作」がそれでもひっそりと強く生き続けているというメッセージでもあり……。
また、最初の空襲のシーン(円太郎がすずと晴美を庇って伏せるところ)に於いては、空に浮かぶ爆煙がカラフルな絵画的表現を伴って描かれています。その空に対して、すずは一瞬見惚れてしまうわけですが、当然看過できないはずの「戦争」風景でも、時に危うい魅力を放ってしまうという、人々の価値観への侵襲性を示唆しているような気もします。
更に言えば、「戦争」という悲惨な出来事が、誰かや何かの一存で、それこそ紙に絵筆で描くかのような手軽さで始まってしまうという恐ろしさも表現されているように感じました。
目の前に起きている事象を処理する暇もないまま、気づいたら世界中でドンパチ行われはじめ、何が何だか分からないまま、それでも「生活」は存在していく……。
これは、すずの幼少期時代に於ける虚実入り混じるような体感に近いものと言え、そういう咀嚼しようのない独特なムードが戦時下にはあるのかもしれません。
そのほか、終戦宣言放送後の場面では、さりげなく太極旗が掲げられるカットののち、すずが我が国の加害性に気づいて涙するシーンがあり、我々が考えなくてはならない問題もしっかり挿入されています。
国内外問わず、政治/外交/戦争/エネルギー問題など非常に緊張状態にある今こそ、根本的な平和を「戦争」観点と「生活」観点の両面から改めて見つめ直すことができる、重厚な映画でもあるんじゃないでしょうか
皆さんも、「余裕があるとき」に是非観てみてください。
余談ですが、僕はここ数年「生活」をテーマに生きています。大変なことも多いですが、「生活」は必ず毎日そこに在るので、ある種の拠り所のような気もします。
これから先、「生活」はどうなるのでしょうか。この映画によって我々が受けた刺激は、どこへと向かうのでしょうか。今まさに行われている政治も、どこへ向かうのでしょうか。
気を引き締めながら、これからも「生活」をしようと思いました。
おわりに
ということで、今回はこの2本。それぞれ方向性の異なる良いインプット&アウトプットになったのではないでしょうか。
今後のことですが、職員さんに紹介してもらった作品があと2つあるので、次回はそれらについて書こうと思っています。そして、その次の最終回で「まとめ」にあたるようなコラムを載せて、この『自世界拡張プロジェクト』は一旦幕を閉じる予定です。
変わらず最後まで興味を持っていただければ嬉しいです。それでは!