どうも。「かんりしゃ」です。
今回も、ASDの特性が出ていたといえば出ている、出ていないといえば出ていなさそうな、「ちゅん」らしい文章でしたね。
あいかわらず蛇足ですが、「かんりしゃ」の感想をアンサーとしてのせます。
映画をみると、誰かとしゃべりたくなります。
「ちゅん」も書いていますが、映画にはおおむね120分という時間的制約があるため、その制約が少ないフォーマットよりも、余白があることが多いと思われます。
その余白は、解釈や感想をうむものになりそうです。だから誰かとしゃべりたくなるのだと思います。
誰かと共有してはじめて(?)、自分の中に落とし込めるのかも?
映画評論とかが多いのは、これゆえなのかな?
「ちゅん」の文章を読んで、「ちゅん」の孤独に触れた感じもしました。「なんか寂しいんやろなー」と感じました。
なんか、ふれた映画を誰かと共有したりしたら、彼の中に映画が位置づけられそうにも思いました。
また、映画って映画館で見た方が良い派です。
わざわざ足を運び、劇場に入り、席を探して座って、スマホの電源切って、暗くなって、「みて」、明るくなって、スマホの電源いれて、会場の外に出て、ご飯のこと考える。
こんな一連の流れが「映画体験」だと思い、最も映画の魅力が体感できるのでは、と思ってます。
スマホでみると、いろんなほかの要素が入りすぎる。。。
物語の摂取は、その物語単体でなく、その体験の仕方が思い出となり、誰かとの共有が発見をうみ、物語+αのことが、自分自身に入ってくるような。この+αなく、物語だけの摂取はなんかむずそう。
3 ASDと映画
どうも、スタッフの「ちゅん」です。『ASDと〇〇』も第3回になりました。今年度から自分を取り巻く環境が変わり、心境にも変化が生まれています。それに伴って、今回は少し別角度から『映画』というものをテーマに選んでみることにしましたよ。
やはりどうしても固い文章になっていますが、自分自身そのものに迫るプロジェクトなので、お許しください🎗️
1.『映画』に感じる不成立性、そして自世界の拡張
今まで、 #1の『RPG』、#2の『サッカー』ともに、僕の好きなものをテーマに置いてきましたが、今回は異なります。むしろその逆、『映画』はあんまり好きではないのです。生涯で観てきた映画の数も数えられるほどですし、放っておけば全くと言っていいほど観る習慣がありません。
Amazon.co.jp: 映画クレヨンしんちゃん オラの引越し物語~サボテン大襲撃~を観る | Prime Video
↑僕が観てきた数少ない映画たちの中でも、なかなか凄かったもの。
簡単に言えば、映画が持つ娯楽としての性質と、僕自身が持つ特性やら感覚やらの相性が合わないということだと思いますが、そこには少し複雑なものが渦巻いている気がして、敢えてテーマに据えることにしました。全然まとまってないですが、折角なので一緒に考えてくれたら嬉しいです。
まずは、僕が映画に対してよく感じるモヤモヤを何とか説明してみます。
①メッセージの重さ
映画って、やっぱりメッセージが在るんですよね。戦争がどうとか犯罪がどうとか、そこまで行かずとも、人間はどう在るべきか、社会はどう在るべきかなどの結構、重いの。勿論、楽しいだけ/面白いだけの映画もあるでしょうけれど、2時間もの間に無数のキャラクターが往来し、無数の会話が展開し、現実の社会と紐づきながら、新幹線のようにストーリーは風を切っていく。そうしてエンドロールが流れたら、「さぁあなたはこの問題をどう解く?」と、宿題のように与えられて終わる。僕にはそんなイメージがあります。
娯楽なんですから適当に観流してもいいはずですが、 なかなかそれはできません。どうやら僕は、”目の前で起きていること”に対しての没入度が高いようです。現在、色々と環境が変わっていく中で、優先順位が低いと判断できるようなタスクや景色にも、正面から取り合ってしまう傾向があることをより自覚しつつあります。
よく聞く言い回しだと、”距離が近い”ってことなんでしょうけど、僕はあまりこの表現が好きではありません。何というか、そういう次元の話ではないんです、きっと。
②時間
次に、これはなかなか伝えるのが難しそうですが、その娯楽を摂取するのに掛かる”時間”というものが、僕と娯楽を語る上での一つの物差しのような気がしているのです。
例えば、まず”時間”の短い音楽、お笑いのネタ。一曲聴くだけなら、3分から5分くらい。ネタなら長いのもありますが、一般的には数分、長くて10分20分。あっという間ですよね。これくらいの時間なら、何というか自分の中にスッと入ってくる感覚があります。仮にその数分の中でよく分からないことが出てきても、瞬間的に感覚的に燃えて散っていくというところに、ある種の芸術性が宿っているとは思えるので、「まぁそういうもんだよね」と概ね咀嚼することができます。
例えば、逆に”時間”の長い連続ドラマ、シリーズものの作品、ある程度連載されていた漫画。これらも、摂取し進めていくこと自体の労力は別途感じますが、ずっとその作品と付き合うことによって、どんどん世界観が自分ごとになっていくという感覚があります。こうなると、また自分の中にスッと入ってくる気がするのです。
余談かもしれないですが、『ONE PIECE』みたいなものが何故感動するのかというのを個人的に考えたりしてるんです。ああいう長期連載作品って、どうしても時間や期間みたいなものが面白さを増幅させている気がするんですよね。伏線みたいなものも読者のリアル年月経過が伴って回収されるわけで、そこに幾らかのマジックがあるような。だから、”時間”って何かしら作用を及ぼしているのではないでしょうか。
①で述べたことと照らし合わせれば、2時間という半端な”時間”との相性が悪いのかもしれません。
「わからないものだよな」と諦めるわけにもいかず、かと言って「わかろうとするにはまだまだ足りないな」という感じ。そういう混乱した状態で、自習室に閉じ込められ宿題を課されると、生活が回らなくなってしまいます。「あぁご飯作らないといけないのに……」、「お風呂に入らないといけないのに……」。そうして僕の生活には、『映画』というものがなかなか入り込まなくなっていきました。
③「だから何?」
①と②を踏まえて、敢えて抽象的に整理しようと思います(迷惑?)。
こうなってくると、映画を観たあとにはよく「だから何?」と感じる場合が多いんです。交差点のようにすれ違うわけでもなく、かと言ってじっくり話して関係を構築していけるわけでもなく、急に現れては意味深な脈絡の話を中途半端に残して去っていく。リアリティを伴っている風に見せかけて2時間でショーは終わり、その半端さはよりフィクションであることが透け透けの白々しさもあるようなないような。
僕に何をして欲しいんだろう?
そうして、この体験を一体どのフォルダに収納すればいいのか分からないまま、自宇宙の中をぼんやりと漂ったのちにどこかへ消失していったり、或いは消化できない異物として臓器と臓器の間に挟まり続けるみたいな、何とも言えない感覚になるのです。
これは、単純に映画というものに慣れ親しんでいないということでもあると思います。音楽やお笑いに関しては、物心が付くか付かないかの頃からたくさん摂取してきて、こういう形式の体験を得たらこのフォルダに収納して咀嚼する、みたいなシステマチックな流れが発達しているんだと思います。
とはいえ、やっぱりそんな簡単な話でもない気がしていて、こうしてテーマに選んだというところに立ち返ります。矛盾していることが多々あるかもしれませんが、これらをスタートライン/叩き台/データのひとつとして、何かに繋がっていけば嬉しいところです。
以上、僕が映画に感じていること、分析できること、今までなんとなく避けてきていたニュアンスでした。
そして、これからも映画というものが自分の中心に来ることは流石になさそうではあるのですが、冒頭でも書いた通り、今現在、自分の環境や心境には変化が訪れています。簡単に言えば、「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してみてもいいかな」と感じているのです。
敢えてこの言葉を使いますが、”自閉”という性質を持って生きていると、色々と思うところ、衝突するところがあるのです……。このことに関してはまあひと先ず追々でいいのですが、取り敢えずチャプター2では映画を実際に観てアウトプットするということをやってみようと思います!
2.『映画』を摂取してみよう!
ということで、『映画』というものを改めて摂取してみて、だらだらと何かしらアウトプットしてみようのコーナーです。今、映画らしい映画を観たときに、何を思い何を感じ、どう影響を受けるのかというところに自分でも関心があります。
今回は、そういう脈絡などを説明した上で、こくりの職員さんにおすすめの映画を紹介してもらうことにしました。他人にオススメしてもらって何かを摂取すること自体、自世界の拡張に繋がると思うので、こういう形式を選びました。
また、これらの活動は『ちゅんの自世界拡張プロジェクト』なるものに派生しながら同時に動き出しており、そちらでは映画以外のエンタメも含めて自世界拡張を図ろうと考えています。現時点では、お互いのアップロードのタイミングがどうなるか読めてないですが、良かったらどちらも興味を持っていただけたら嬉しいです。
ⓐ3時のカフェインからの紹介『ダイ・ハード4.0』
Amazon.co.jp: ダイ・ハード4.0 (吹替版)を観る | Prime Video
職員「3時のカフェイン」さんから、往年のアクション映画『ダイ・ハード4.0』を紹介してもらいました。言わずと知れた名シリーズだと思いますが、僕が観たことあるはずがありません。こういう機会がなかったら、死ぬまで観なかった気さえしています。
「3時のカフェイン」さんから紹介してもらった際に、「頭、空っぽにして観てね」というガイドラインを貰っていたおかげか、普段よりは余計なことを考えずに観れたと思います。総じて面白かったような気はするのですが、それでもやっぱりよくわからない感覚もあり、不思議な気分を抱きました。以下、具体的なアウトプット。
先ずはやっぱり会話が上手すぎる。とにかくできるだけジョークで返す、一度捻ってから相手に返そうとするクリエイティブな姿勢は、日本も見習わないといけないのかもなと感じました。
そして、ここまでアクションど真ん中を突っ切られると、最早コメディだなと思いました。ニヤニヤしちゃいます。ありえないラッキーとアンラッキーが、ジョン・マクレーン刑事を襲い、相棒のマシュー・ファレルのハッキングスキルに助けられながら、最終的には敵を追い詰めていく。小細工なしのプロトタイプ直球勝負な作風に、「そうそう映画ってこうだよね」と思う一方で、「いやいやアクションしたいだけやないかい」という大きなツッコミも……。
また、1時間を過ぎたあたりの車中のシーンで、マクレーン刑事は己の運命と悲哀を淡々と語るのですが、そのセリフがアクション至上主義を体現していくストーリーの中でも少し浮いていて、印象に残りました。結局こういうバックボーンさえも、アクションに重厚感を与える演出に過ぎないのかもしれないですけどね。
上記のシーンは勿論、マシューによる車を動かすためにオペレーターに対して演技をするシーンなど、やっぱり主人公2人は特別素晴らしい俳優でした。アクションシーンとかもどうやって撮ってるんでしょうね。色々とやりすぎなシーンも多々ありましたが……笑。
全体を通じて概ね好印象な感覚を抱きつつも、とはいえ、「ここまでお金と世界を巻き込んでまですることなんかいな?」とは思いました。やっぱり、それぞれに心地よい規模感ってありますよね。僕の場合、それがとことん小さいのか、現実的なのか生活的なのか。だから、現代劇/日常劇の方が好きなのかもしれません。その分、精神的にグーっとキてしまうのですが……。
ⓑするめからの紹介『PERFECT DAYS』
Amazon.co.jp: PERFECT DAYSを観る | Prime Video
職員「するめ」さんから、2023年の話題作を紹介してもらいました。どれだけ話題になろうと僕が観るはずもないので、勿論初見です。役所広司演じる都内トイレ清掃員の平沢がただ生活する様を描いた作品です。
素晴らしい映画だったと思います。限りなく台詞が排除され、ナラティブな演出もほんの僅か、”登場人物”じゃなく”物語”じゃなく、ただそこにある”生活”を粛々と描き続ける2時間。あれこれ語ったり分析すればするほど、平沢の愛していた”自然”に人工物を投げ入れるようで気が進まないですが、少しだけまとめておこうと思います。
奇しくも、今プロジェクトと連動しているような内容でしたね。自世界を生きる平沢が、生活と心がほんの少し揺れるような人間と出来事に遭遇し、時に涙が表出したりしながらも、大衆的な評価や価値に囚われないPERFECT DAYSを送り続けていく。前述の通り、平沢の人間性を考察すること自体、極めて失礼な行為に思えますが、個人的にシンパシーがあるのと少し大事そうな観点を発見したので蛇足ながら共有します。
清掃員仲間のタカシは、平沢のことを”すごい無口”と形容しています。確かに職人気質でミステリアスな印象も受けますが、タカシがシフトを飛んだことを非難する電話のシーンや、家出してきた姪のニコとの関わりの中では、澱みなく言葉を紡いでいます。必要とされる場面や、自分が大切だと思った場面では、ごく自然に重要な会話をし、外側から勝手に大雑把に見立てられている人柄とはギャップがあるように思います。
人間って、そんな簡単に法則付けられないんですよね。ましてや、一個人が周囲から評価をされ続けないといけない生活なんてナンセンスです。作中では、自世界や自閉にこだわる生き方に対して批判的なプロットはあまり含まれていないように感じますが、そういったものへのアンチテーゼももしかするとあったのかもしれません。というか、本来その二元論のシーソーで平沢や人間を切り取ること自体が本当に虚しいことですよね。
今日だって、都内のトイレを清掃して回っているんでしょうか。誰でもないあなたが、誰でもないあなたとして、ただ生活しているということは、 神社の上に広がっていたあの美しい木漏れ日以上に豊かな自然と言えるかもしれません。
あと、車ってやっぱ良いなー。街の中に自分の部屋が出来る感じ。そういう意味では、トイレなんかもそうなのかもしれないですね。
3. ASDと映画
上記の紹介してもらったもの以外にも、映画みたいなものを少しずつ摂取するようになってきている今日この頃です。知らない世界や重厚な創作に触れることの豊かさも少しずつ感じ始め、概ね良いムーブメントを行なっている実感もあります。
ただやはり、その摂取には大きな労力と苦痛が伴うことにはあまり変わりがなさそうです。例えて言うなら、旅行ですかね。楽しく豊かな経験をもたらしてくれる旅行も、毎週毎日行うのは難しいことでしょう。一般的な人からすれば、映画一本観ることくらい隣町のイオンモールに出かける程度のことなのかもしれませんが、僕にとっては北海道沖縄海外に飛び立つようなものです。ましてや、それを強制させられるなんて……。
結局は、生活の規模感なのかもしれませんね。新しく大それたことを連続的に行う苦痛は、誰しもが覚えるものかもしれませんが、その度合いが一定を超え社会における変動性にそぐわなくなってきたあたりを、たまたま”自に閉じている”と括られているだけなのかもしれません。
そのただの違いを、”間違ってる”と言われても困っちゃうなぁ。あはは……。
また、誰でも映画を観終わったあとは、ぼーっと考え込んだりして生活に戻りづらくなったりもするでしょう。それでも、僕がこうしてとにかく生活を大事にしたがるというのは、毎日ルーティンとして行っているものが多かったり、それを崩すのが難しかったりすることに起因しているのかもしれません。一口に「んー、なんか映画って苦手だな」と言っても、水面下では様々な脈絡や感覚が紐づいていたりいなかったりするでしょうし、こうやって、一見なんでもなさそうな切り口でも、思わぬところで太い骨格にぶち当たることもあったりなかったりするでしょう。
こういう特性だと、映画のみならず何かをどんどん摂取して開拓していくみたいなことは現実的に難しい場合が多くなります。それでも、社会は「とにかくたくさんの経験をしましょう」と間接的に僕を叱ったりします。勿論そういったことも大事ですし、僕としても出来るだけ実践しようと心掛けてはいますが、ひとつひとつのことに対してゆっくり考えて触れ合っていく生き方でも別に構わないはずです。「本当の愛を知るには、生涯でたくさんの人と交際することだ」と言われてる気分です。そうとは限らないのでは?
あれやこれや言って、最終的には自分と社会との折り合いの問題に絡め取られる部分もあり寂しいですが、いい加減ちょっと文字数が多すぎました。取り敢えず、ここで一旦終わろうと思います。前述の通り、これらの活動と報告は、並行して立ち上がった『自世界拡張プロジェクト』の方に引き継がれ暫く続いていくと思われますので、そちらも是非よろしくお願いします。『ASDと〇〇』ももう少し続きますよ。それでは〜。
ASDとサッカーへのアンサー
どうも。「かんりしゃ」です。
「ちゅん」ががんばって書いた、ASDとサッカーへの応答をさせてもらいます。
蛇足にならんかったらええけど。
まず、思ったのは、「ちゅん」はサッカーが、すごく好きなんでしょうね。
そこまで好きとは知りませんでした。
好きなことがあるのは、うらやましいなーと思います。ええなあ。
そして、なぜサッカーが好きなのかをASD性と絡めていましたが、それは何か後付け感がありました。
あの、見る試合を整理して表にする等はASD性があふれていたように思います。
ただ、サッカーの競技の特性とASDの特性のマッチングに関しては、「かんりしゃ」はピンとこなかった部分もありました。ああやって分析するのは「ちゅん」らしいけど笑。
「かんりしゃ」は、熱狂的野球好きのASD者を知っています。
その人なりの野球の面白さを享受し、日々声援を送り続けています。
ASD性と野球という狭義の特性の相性が悪いわけではありません。「ちゅん」と野球との相性があまりよくないのでしょう。
もしくは、新たなスポーツを娯楽として享受することの腰をあげることとの相性があまりよくないのかもしれません。
けど、もしかしたら、きっと、「ちゅん」が野球と出会う時期や出会い方が違えば、「ちゅん」なりにサッカー級に野球を好きになってたんちゃうかな、とかも思ったりします。
そういう意味では、「ちゅん」はサッカーと出会えて、出会いを出会いとして、それを大切にしたんでしょうね。
「ちゅん」はサッカーに出会えて、それを好きと思えて、享受できる環境があって幸せですね。もう一回言うけど、うらやましいわ。
2 ASDとサッカー
どうも、スタッフのちゅんです。第1回目の『ASDとRPG』が自他ともに好評で、あれぐらいのことはもうあんまり書けそうにないのですが、全4〜5回を目指してまたぼちぼちやっていこうと思っています。
ということで、第2回のテーマは『サッカー』。基本的に(外国の)サッカー観戦のことを指しているのですが、運動という意味のサッカーも少し出てくると思われます。
やはり固い文章になっておりますが、自分自身とできるだけ近いところで表現するプロジェクトなので、お許しください
1.I Love Premier League
プレミアリーグってご存知でしょうか。
イギリス(主にイングランド)のサッカーリーグのことでして、名実ともに世界最高峰の呼び声高いサッカーリーグです。
↑『24/25 プレミアリーグ 第13節 リヴァプール対マンチェスター・シティ ハイライト』
上記URLで対戦しているリヴァプール、マンチェスター・シティに加え、マンチェスター・ユナイテッドとかアーセナルとかチェルシーとか聞いたことありますかね。それらのクラブが在籍しており、近年では、ブライトンというクラブにいる三笘薫が大変活躍していることで、日本人にもより親しみがあるリーグになりつつあります。
https://www.youtube.com/watch?v=zJFVTvSK_XU
※『三笘薫のスーパーゴール』
僕はこのプレミアリーグがあまりにも好きでして、10年に渡ってたくさん試合を観てきています。基本的にはまあただのスポーツ観戦と言って相違ないのですが、この10年間の観戦の折々で、自分にとって大切なことにも出会いましたし、自分の特性と紐付けて考えると面白いこともあるかなと思い、今回テーマに選びました。
2.完全な娯楽って?
いきなり話は少し変わって、娯楽って一体何なんでしょう?
一般的に挙げられるのは、テレビを見たり音楽を聴いたり本を読んだりゲームしたり、またギャンブルなんかも含まれる気がしますが、要はこのあたりの心理的刺激もしくは心理的リラックスを促すものが、広義に娯楽と呼ばれている気がします。
ただ、このあたりの娯楽みたいなものを摂取するのが僕は少し苦手です。勿論、音楽は大好きですし、物語と触れ合って感動したりワクワクしたりすることもありますが、やはりその摂取には大きな労力と受ける影響があります。作中のメッセージによって、何か社会問題が提示されていたり、とある属性の人間を糾弾するようなものが含まれていると、その意図を汲み取ることやそこからの解決策を考え抜くことなどに生活が乗っ取られ、日常を固定している屋台骨まで揺らいでしまうことも少なからずあります。
さて、サッカーってどうでしょうか。大前提、これは僕がサッカーが好きという立場から物を言っているポジショントークであることは否めないのですが、サッカーならあまり心理的に揺さぶられません。ここで言う心理的とは、どっちが勝つか分からないハラハラや、試合最終盤での逆転劇などにおけるものではなく、あくまで前述の人間や社会はどう在るべきなのかといったようなニュアンスのものです。映画を2時間観るのとサッカーを2時間観るのでは、含まれてるメッセージの数や重さが全然違います。
諸々、サッカー特有のメッセージの重さやイレギュラーは存在するとは思いますが、まあ基本的にどの試合を見ても、誰かがドリブルしてパスを回してシュートして、点が入ったり入らなかったりしてどっちかが勝ったり負けたりなどするくらいです。現象として想定される大体の幅には収まります。これが大事です。
あれこれ個人的な見解を述べましたが、娯楽という、「人間の心を仕事から解放して楽しませ慰めるもの」といった元来の語句通りの脈絡から考えると、サッカー(スポーツ)観戦みたいなものが最適な在り方のひとつなのかもねといった具合です。
まあ、こないだもとある野球好きの芸人さんが「サッカーはつまらなすぎる、90分間のほとんどが意味がない」と言ってましたが、僕自身はそれを野球に対して感じるので、これは個人それぞれの感覚だと思いますし、サッカーをそう感じるのもよく分かります。スポーツもスポーツで、人間のほとんどが好むようなそう大層なものではないですよね。
3.運動、そして自己へのフィードバック
学生のころ、僕は遊びで少しサッカーをしていました。運動やスポーツ自体は全然好きではありませんが、サッカーだけはある程度楽しくやっていたというところです。そこから何年か経ち様々な経験をした現在、自分自身の特性と生活のことを踏まえて改めて考えると、やはり運動って大事なんだなと思わされるのです。
勿論、一般的な健康上、運動が大事というのは言わずもがなですが、ASDの自分からすると少しだけ違う角度の重要性があると分析できます。
現代、デジタル化されたものが氾濫したことにより、肉体的に与える影響は軽視され、頭と心だけに作用するものが増えてきました。
また、僕は肉体的な欲求や純粋な身体の機微をありのままキャッチすることが苦手だったりしています。お腹が減って食べたいからごく自然に食事をとる、気になっていることはとりあえず二の次で眠たいから睡眠をとる、など感覚的な動作所作はいつも不自然にというか機械的に行う場合が多いです。
こういう現代を、こういう特性を持って生活すると、どんどん自分自身が情報的にプログラミングされたような感覚にさえなっていきます。極端に言えば、電脳世界化です。
そうなると、行動にかかる肉体的コストや、自分が本当にその行動をしたいのかどうかといったことなどが見えづらくなり、脈絡が掴めない疲労や倦怠に苛まれたりすることもしばしば引き起こったりします。
それに対し、”運動”って一番手近で実感しやすい自分から自分へのフィードバックだと思うので、こういう信号を身体に送って、こういう動作が行われて、その動作に対する触覚/痛覚的なフィードバックってこんな感じだよなぁみたいな、今まさに実際に生きている動物としての実感をちょこちょこ得ていた方がナチュラルだよなぁと感じている次第なのです。
それぐらい自己ってまあ曖昧なものですよね。
4.観るための工夫、意味付け、そして功罪
ところで、工夫って大事ですよね。僕の人生においても大きなテーマです。
僕はこのプレミアリーグなるものを週に何試合も観るわけですが、たくさん観るための工夫みたいものを作っています(そもそも何でそんなたくさん観やんとあかんねん、というのは飲みこんでいただきたいです)。

↑『直近の観たい試合のスケジュールと、日本語コメンタリーの担当者表』
こちらをご覧ください。これは観戦に際しての自作のメモですが、自分に最適化された様式で要点だけ列挙しているスケジュール表です。

↑『観戦した試合の記録』
それに加えて、1節3試合観戦というガイドルール設定を行なっており、観戦した試合はこのように陳列して記録しています。
要はどうやって試合を観戦していくか、何を基準にしていくかといったことのシステム化です。これがあるおかげで1試合1試合に”観る意味”が付与され、観戦することがスムーズになっています。昔は観た試合数のカウントまで行っていましたが、そこらへんはだいぶ緩くなりました。
そもそもでは、なぜこんなことをしないと観れないかというと、やはり”自分自身の感覚的な欲求”をキャッチするのが苦手というところに立ち返ります。
娯楽なんですから、観たいときに観て観たくないときには観ないでいいはずですが、僕はそういう感覚を拾うのがあまりできません。
前回の『ASDとRPG ⓐ’ I LOVE 秩序&フレーム』で書いた、秩序的に要素たちが整理されていくことに大きな意義を感じ、この地点に僕にとっての楽しさが存在しているとも言えます。
ただ、こういうシステム化は、疲れているのに観ないといけない……、興味のない試合なのに観ないといけない……、みたいなことも同時に生み出します。
それはつまり、”自分自身の感覚的な欲求”により鈍くなっていくということで、3章で書いていたことはそういうことです。
しかしながら、抽象的に要素を認識し整理できるからこそ、こうして自分の世界をマス相手に表現できるとも言えます。
まあ要はバランスなんですが、そんなに簡単なことでもありませんね。
5.ASDとサッカー
↑ 『僕の1番好きな選手のゴール集』
さあ、まとめの章です。言いたいことは大体言いましたし、今回に関してはそこまで体系的な論述をしたいわけでもないので、大してまとめることもない気がしますが、何となく大事そうなことを最後に少し整理しておこうかなと思います。
そもそもサッカーって何なんでしょう、というのを最後に考えてみようと思います。勿論、答えなんか無いですし結構どうでもいいですが、無理やり考えます。
競技人口やらファン人口やら世界の隅々まで普及していることなどを考えると、やはりサッカーは3本の指に入るくらいのスポーツだと思います。
そこには、ゴールにボールが入れば点が入るという単純で視認性に優れたルール設計であることが手伝っている気がします。何度も引き合いに出して大変恐縮ですが、野球とかは初見だとどうなったら点が入るかというところが視覚的にはあまり伝わりにくいルール設計です(そのぶん奥が深いですが)。
(ASDの)自分にとって、視認性が優れているという観点は、スポーツのみならずとても重要だと感じていて、やはり前回の『ASDと RPG ⓐ規則性』でも、そのような話をしました。サッカーの試合の映像って、両チームがフォーメーションを綺麗に整えていて、ピッチを構成する要素も洗練されており、自分にとっては観ていて気持ちいいんです。
ただこれを別の側面で見ると、曖昧なものが苦手な特性を持つ(ASDの)自分が、ファウルの判定だったり、可視化されていないオフサイド、暗黙の駆け引きなどその他諸々に、そこまで引っかからずに観戦できているという事実もあります。
自分の中にまだ解明されていない(ASDの)特性があって、それとサッカーが深層的に強く結びついているのかもしれないですし、はたまたその人の全てが(ASDの)特性によって影響を受けるわけでもないでしょう。
その上、解明してしまうことってやっぱり功罪あって、
それまでごく自然に行われ楽しめていたものが、研究と分析によって急激に意識を与えられ、飼い慣らされた楽しみに変わってしまうこともあります。
人間、ある程度無理なくスムーズに摂取できるものが、生活の中の大切なルーティンとして息づき残っていくと思っているので、そういう意味では、僕にとってのサッカーはある程度研究せずに、日常の安定したほんのスパイスとしてそっとしておくぐらいが良いのかもなと思ったりもします。
何も見えない靄の中で暮らすのも、苦しいですが、何もかも透き通って見えてしまう暮らしもまた苦しいですからね。
ということで、サッカーに付随することはまだまだ語りたいことがありますが、今回はとりあえずここまでに。また第3回で会えたら嬉しいです。
参考文献
つながりの作法、綾屋紗月・熊谷晋一郎、2010、生活人新書
ASDとRPGへのアンサー
どうも。「かんりしゃ」です。
「ちゅん」のASDと〇〇には、「ちゅん」の文章とともに、「かんりしゃ」のアンサー、つまり応答をして、ひとつとしていました。
ですので、この記事は、この「ちゅん」のブログのアンサーです。
「ちゅん」が書いたのが、11/12です。約2ヵ月たちました。
ずっと「かんりしゃ」の頭の中には、このアンサーをしないといけないと思いつつ、手と頭が動きませんでした。
その動かなさの要因を考えると、「ちゅん」の文章がステキで的確やったからやと思います。
自分のASD的とされる世界観をもとに、RPGのことを考えており、それをしっかりとした言葉を選んで表現している。
何か、これに対するアンサーって蛇足でしかないよな、と思い、手が動かなかったのやと思います。
この感想自体が、アンサーなので、みなさん改めて、ブログを読んでください。よい文章ですよ。
かつては、ドラクエなどは、すごく多くの方が触ったことがあるゲームだったと思います。
他のメディアもそうですが、今はどんどん細分化され、種類も多くなり、みんなが触ったことがあるゲームってのがなくなってきましたね。
ゲーム選び自体も、枠がなくオープンな世界になってきたのかもですね。
では、第2回を、首を長くして待ちましょう。
1 ASDとRPG
第1回はゲームのジャンルであるRPGをテーマにしてみます。RPGについての簡単な説明と分析をしたのち、ASDと紐づけていく構成です。
少し堅苦しい内容かもしれませんが、このプロジェクトはこの方向性で頑張ってみようと思ってます。よろしくお願いします
1.RPGとは?
まず最初に、そもそものRPG自体の説明をさくっとしてみようと思います。
広義にRPG(ロールプレイングゲーム)とは、コンピューターゲームジャンルの一つで、主人公とその仲間がパーティ(集団)を組んで、世界中の街やダンジョンを冒険し、能力や装備を強化したりしながら、待ち構える敵たちと戦い、平和を目指すと言った感じのものです。勿論、作品により内容は様々ですが、概ねこんな形式です。
お馴染みの 『ドラゴンクエストシリーズ』、『ファイナルファンタジーシリーズ』、『ポケットモンスターシリーズ』などが代表的な作品ですね。いずれも日本のみならず世界中での人気を誇り、ゲーム業界を牽引するジャンルの一つと言えます。
父親の影響により、僕は5歳くらいからドラクエを触っていたと思います。今時そうでもないかもしれませんが、どちらかと言えばゲームを触る年齢としては早かったような気もします。おまけに戦術ややりくりが多分に求められるRPGを、僕は感覚的にほぼ問題なくプレイしていました。今思えば、生まれながらの特性であるASDとRPGにはもしかすると親和性があったのかもしれません。
2.RPGらしい要素
チャプター2では、RPGのRPGらしい要素たちを何個かピックアップして紹介してみたいと思います。
ⓐ規則性
ゲームというもの自体に言えることかもしれませんが、特にRPGは規則性に満ちたデザインがなされていることが多いです。
例えば、多くのRPGが採用している敵との戦闘におけるターン制システム。乱雑に攻守が交錯するのではなく、味方が1回行動したら、敵も1回行動するという大変秩序的なバトルデザインです。
他にも整然としたゲーム画面表示にも美しい規則性が宿っていると感じます。
これはほとんど印象操作というかポジショントークなのかもしれないのですが、このスーパーマリオRPGを代表とする任天堂やスクエアエニックスのRPGは、本当に画面の中の情報認識がし易く設計されてるように感じます。(最近のアプリゲームとかオンライン系のゲームとか、一画面でとんでもない情報量なので……)。
とにかくゲームの端から端まで、規則によって秩序的に表現されているものがRPGには多いイメージです。
ⓑコツコツ性
RPGは他のゲームジャンルと比べると、コツコツやっていけばクリアできるように設計されていることが多いです。
例えば、レベルという概念。敵を倒すと経験値が入手でき、その経験値が一定溜まるとレベルアップし、仲間たちが強くなっていくというものです。作品にもよりますが、このレベルは最大99ほどに到達するまではゲームの進行度合いに関わらずどんどん上げることができ、時間こそかかってもコツコツたくさんレベルを上げていれば、強敵であっても楽に倒せることもしばしばです。
その分、突発的なプレイングスキルや運によって道が開けることは少ないとも言えますが、ある意味平等的なデザインだと思います。
ⓒ 適度な自由性
かなり重要な要素だと思います。RPGにおける適度な自由性を語る前に、ゲームそのものの自由性、もっと言えばその手前の主体性みたいなものについて書いておこうと思います。
1985年にファミコン用ソフトとして発売された『スーパーマリオブラザーズ』。その一番最初のコース、1-1のスタート画面を思い出してみてください。
マリオは画面全体のやや左に立っており、顔は右を向いています。その先には広大なスペースがあり、手元にはいかにも右に進めそうなコントローラーの十字キー。これにより、多くの人間が、「右に進んでいくのだろう」と感じることができ、「早く右に操作したい!」というプレイヤー自身の主体性を促すことができるデザインになっていると聞いたことがあります(2019、玉樹)。
ゲームのみならず、本当に素晴らしいデザイン、考え方だと思います。
そして、この主体性を維持させるために、自由性という要素が大きく関わってくると思います。
まず、RPGを分析する上でよく登場するものとして、”おつかい”という概念を紹介します。例えば、村に居る人々に話しかけると、「村長が悪い呪いにかかってしまって、それを治すには村の北にある洞窟の奥に咲く花の蜜が必要なんだけれど、あの洞窟には魔物がいっぱい棲んでいて近づけないんだ…… ああ誰か腕の立つ者はいないだろうか……」のような、いかにもプレイヤーにそれを実行して欲しいかのような仄めかしを口にしたりするのです。
これにより、やるべきことがプレイヤーの中でもはっきりする反面、仄めかしが強すぎたり多用しすぎたりすると「なんかおつかいしてばっかりだな」という印象も持たれかねません。
そう考えると、それとない示唆やシステムデザインによって、プレイヤーに選択肢や深層的動機をちょうどよく与えつつ、随所でプレイヤーそれぞれが持つ個性のグラデーションを受け入れられる余裕を持つみたいなことが、適度な自由性に繋がるのではないかと感じます。
そういうバランスが、RPGはすごく丁度いいというか丁寧というか、そもそもそういう概念自体を生み出したのもRPGだったりしそうですが、とにかく心地よくプレイできる場合が多い気がするのです。
3.ASDと RPG
最後に、チャプター2の要素たちをASDと紐付けて研究してみようと思います。
ⓐ’ I LOVE 秩序&フレーム
僕は、物事や要素が規則的に並んでいたり、並列的で平等に扱われていたりすることにとても落ち着きます。反対に、物事や要素が乱立し無秩序だと、途端にそれらを認識することが難しくなり、まずはそれらを体系的に整えることから着手する傾向にあります。
これはすごくニュアンスの表現なんですが、情報と情報とが直角に交わっていることが理想的だったりします。情報と情報とが直角に交わることが連なれば、やがてそれは美しいフレームを形成することになり、とても認識しやすくなります。
例えるなら、ショーケースの中に美しく並んだミニカーのようです。ミニカーという基本的に同じ形のものが、同じ向きで綺麗に陳列され、縦と横が直角に交わるガラスの仕切りによって整理され、最後に蓋をされることによって体系的な情報群として大きな意味性、成立感を持つ……という感じです。
このようにRPGは、情報群がショーケースの中で体系的に陳列されているように感じます。だから、僕が認識しやすいんだと思います。
正直、何を言ってるか全然分からないと思うのですが、僕が生きている感覚を精一杯表現するとこうなります。
というか、こういう文体と構成で文章を書くということ自体が、陳列的な世界で暮らしているという事実に他ならない気がしています。
ⓑ’ マメで真面目な人が報われる
色々関わってくれている周りの人からすると、僕は結構マメで真面目みたいです。ただ、自分の実体験も含めた偏見を繰り出すと、そういう人って逆に損をしてしまったり、周りに付いていけなくなったりすることもよくある気がします。これも結局、マジョリティとマイノリティの話に発展していくのですが、今回はとりあえず置いといて、真面目な人って割を食うことも往々にしてあるよねぐらいの仮説でこの後の文章を展開させてください。
こういうゲームがありまして、最近ずっとプレイしていました。少しアクション要素があるゲームデザインですが、概ねRPGだと思います。細かい世界観のことは今回省きますが、何を言いたいかと言うと「マメな人が報われるゲームだったよ!」ってことなんです。
RPGにはクエストというシステムがありまして、街の人なんかから依頼を受け、それを達成するとアイテムや装備が貰えて冒険が有利になるみたいな感じのものです。そういうクエストがこのゲームには山ほど用意されていて、「あそこであの人が困っていたな」とか「あそこのあれって解決したんだっけ?」みたいな僕のマメさや記憶力が結果的に冒険を大いに助けてくれたのです。
丁寧すぎる生き方をすると、周りから置いていかれることもしばしばかもしれませんが、RPGの世界の中では飽くまで自分のペースを貫くことができ、且つRPG自体もそれを評価してくれたりします。素敵!
ⓒ’ 自己表現のカタチを探して
”適度な自由性”の前フリがどう自己表現に繋がるのか疑問かもしれませんが、何とか繋げてみたいと思います。
昨今、チャプター2で紹介したこの”適度な自由性”を、脅かす存在が生まれました。”オープンワールドシステム”というものです。
”オープンワールドシステム”とは、冒険を始めた最初の段階からワールドマップが際限なく広がり、ストーリーを進める順番ですらプレイヤーに委ねられるような形式のゲームシステムです。
ポケモンシリーズの最新作。従来の2Dの世界から大きく解き放たれ、立体的で広大なマップを自由に探索するゲームデザインに進化しましたが、その側面には余りにも果てしない冒険を強いられる苦しさも宿っていました……。
勿論、こういうプレイヤーの好奇心や主体性を大きくくすぐるアプローチも楽しいものだと思いますが、近年開発されるほぼ全てのRPGがこういう形式を採用していく潮流には些か疑問が残ります。
これは僕の偏った考えかもしれませんが、ゲームとは非社会的なものでないといけないと思うのです。オープンワールドシステムを採用してしまうと、ありとあらゆる物事たちに優先順位を付けなければいけなかったり、諦める箇所を作らないといけなかったり、自分で自分のお尻を叩かないといけなかったりと、すごく社会的な能力が求められてしまいます。その結果、「何かゲームの中でも働いてない?」みたいな感覚に襲われることもしばしばです。 “自由とは不自由だ”とはよく言ったもので、「今からずーっと何してもいいよ」と言われると案外困ったりする人も居るんじゃないでしょうか。
僕のゲーム人生の原点であり頂点の作品です。広がる自然に対する好奇心がちょうど枯れないくらいのマップの広さに加え、様々な要素のデザインが丁寧で綺麗にフレームに収まっている感じがします。
こう考えていくと、僕にとってRPGは自己表現、存在確認の大きなひとつであるように感じます。社会の中で暮らしていると、どうしてもマジョリティという物差しに基準を合わせられ、その接点には障害という概念が生まれてしまいますが、RPGという世界の中では、野放しにされるわけでもお節介を焼かれすぎるわけでもない絶妙なバランスで、僕の在り方をサポートしてくれている気がするのです。
人間自体にも言えることですが、特にASDは自分の内側にあるものをどうやって表現、確認するかといったところに生涯翻弄されるもののような気がします。
他人からは思いもしない場所で、その人は自己の何かを表現し、何かを確認しているのかもしれません。
以上、多分に個人性や偏った論旨展開を含むコラムでしたが、僕の中ではある程度腑に落ちてたりします。
第1回はここまで。読んでいただきありがとうございました。
【参考文献】
・『「ついやってしまう」体験のつくりかた』 玉樹真一郎 2019 ダイヤモンド社
ASDと〇〇 #0
ご無沙汰してます、ちゅんです。今回また、新たな企画が生まれ、始まろうとしています。その名も『ASDと◯◯』。訳わかんないタイトルですよね。ということで、以下説明……。
僕は、ASD(自閉スペクトラム症)という発達障害を持っています。お医者さんが診断を確定し、低い等級ながら障害者手帳も下りるほどのある意味立派な障害のひとつです。昨今、このASDのみならず発達障害というものが、あれやこれや様々なメディアやら個々人の口から語りに語られ、それによって一定のデータが社会に蓄積していってはいるものの、どこか本質的でないような、具体的でないような、臨床的でないような、結果だけしか見てないような、そんな違和感というかズレ感みたいなものがまだまだある気がしているのです。
そんな社会の中でひっそりと暮らしている僕という僕でしかない当事者が、どのような感覚で出来事やらエンタメやらを摂取し、処理し、愛しているのかを、かんりしゃさんからの返信付きコラム調形式でお送りしようと思い立ちました。なので、ASDというものが医学的や広義的にはどう解釈され位置付けられているのかといった外側からの見立ては出来るだけ省いて書いていこうかなと考えています。僕という僕でしかない当事者が、何となくこっちの方が心地良いなぁという感覚を駆使してなんとか懸命に生きている様子のほんの一端のほんの一文字でも、どこかでこの記事を読んでいる誰かに届けばいいなと思って綴ります。よろしくお願いします〜。

