5月のイラストです。
彼の生活やこれまでが、何か想像される絵たちですね。


5月のイラストです。
彼の生活やこれまでが、何か想像される絵たちですね。


はじめに
早いもので、第5回になりました。「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してもいいかな」のコンセプトで、インプットandアウトプットを記録しているブログです。
ⓐ「かんりしゃ」さんからの紹介 ラーメン屋『みつ葉 あべの出張所』
職員「かんりしゃ」さんから、こくりとも縁のあるラーメン屋『みつ葉』さんのつけ麺をオススメされました。
『みつ葉 あべの出張所』さんはあべのHoop地下1階のフードコートにあり、そこで提供される「割り箸」を箸袋に詰める作業を、こくりが仕事の一環として行っています。
なので、日頃から『みつ葉』『みつ葉』とはよく聞いていたわけですが、まだ食べたことがなく気になっていた僕にとって、これは良いニュアンスの自拡になりそうな予感がしました。
ということで、行ってきましたよ。いきなりですが、つけ麺の写真、どーん!

まず、僕たちに馴染みのある割り箸がちゃんとあったことに感動しました!君、ここに居たんだな……涙
そして、肝心の味ですが、すごく美味しかったです!麺も香りが豊かで食べ応えがあるし、スープも芳醇でクリーミーな味わいでした。チャーシューやカイワレなどのトッピングも良いバランスで花を添えており、一品として上手くまとまっているなと感じました。ごちそうさまです〜
と、総合的に良い食事体験になったわけですが、ここからは少し、僕にとって「行ったことのない飲食店で食事を試みる」ということのハードルについて解説しておこうと思います。
まず、前提として僕はかなり少食なので、飲食店で食事を行うときには、その量や刺激が予めすごく気になります。「食べきれるかな?」「しんどくならないかな?」といった身体的な不安……。常に頭の片隅にその意識があって、僕にとって食事という行動にはうっすらパズル性が帯びています。
加えて、ASDの研究ではよく語られる「常同性」という特性が僕にはあり、簡単に言えば「常に同じ行動/状態/状況/生活を望む」といったところでしょうか。つまりは、反復的な生活から逸脱して新しいことを試みるときに、大きな心理的負担/覚悟が伴うということです。こればっかりはなかなかニュアンスが伝わりづらいかもしれませんが、結構しんどいことなのです。
更に、フードコートってシステムが独特というか結構セルフサービスなんですよね。
どう列に並べばいいのか、食券システムならどう買ってどう伝えればいいのか、提供はどのカウンターで行われるのか、食器類はどこからどこまでセルフで確保するのか、食器はフードコートのどのゾーンまで持っていっていいのかetc……。
「そんなの何か大体でうまいことやればええやん」と言われそうですし、結果的にはある程度脈絡を読み取ってアジャストするんですけど、この予測できなさというか不透明さみたいなものは僕にとって馬鹿にできない心労だなと気づきました。慣れればよりオートマチックに食事にありつけるから、良い側面もあるんですけどね。
とまぁ、食事ひとつ取っても、これらの身体的/心理的な高いハードルが僕にはたくさん存在しており、それなりに大変ではあるのです。
実際、「かんりしゃ」さんに紹介をしてもらってから、随分と間が空いてから行くことになりました。何なら、前述のハードルを下げるために、一度下見にだけでも行こうかなとさえ考えていました。
結果的には、他の用事終わりにたまたまタイミングとコンディションが合ったため、一撃で食事をするところまで漕ぎ着けましたが、たかがフードコートの飲食店で食事を行うことに下見まで行こうと考える人間がどれだけいるでしょうか。
自分には困難がたくさんあるということをアピールしたいわけではないんですが、今回の、あくまで日常性の高い自拡体験によって、やっぱり一般的な人との感覚とは少しズレが有るのかもなと痛感した次第です。
皆さんは、新しいことや新しい食事を行うときに、どのような思いになりどのような影響がありそうですか?
ⓑ「かんりしゃ」さんからの紹介 映画『この世界の片隅に』
https://watch.amazon.co.jp/detail?gti=amzn1.dv.gti.373a53a4-960e-4971-acc6-f96e3da8a5e1&territory=JP&ref_=share_ios_movie&r=web
「かんりしゃ」さんから、アニメーション映画『この世界の片隅に』を紹介してもらいました。
原爆投下前後の広島を舞台に、主人公すずが工夫とユーモアを凝らして懸命に生き抜く様を描いた映画であり、かなりヒットした作品です。僕も存在自体は知っていました。
しかし、このコラムや『 #3「ちゅん」の『ASDと映画』 』でも度々書いているように、様々なことが「荷物化」しやすい特性の僕にとって、戦争映画というものはなかなかハードルが高い存在です。そのあたりがどう影響を受けるか……。ドキドキしながら、観てみましたよ。
さて、ただでさえ多くの切り口が含まれている映画だと思いますが、まず触れておきたいのは「戦争と生活の間を行く」ような絶妙なアプローチですかね。
こういう「戦争」をテーマにした作品は、基本「戦争」を正面から描いた反戦/啓蒙的アプローチが多いと思いますが、『この世界の片隅に』は少し異なります。
すずたちの「生活」は、「戦争」の影響を多分に受けていることに間違いはありませんが、その全てが悲哀や消耗として描かれているわけではなく、即ちどんな状況でも「生活」は「生活」として逞しく存在しているということでしょう。
かと言って、「戦争」を美化/肯定しているわけでも決してなく、折に触れて、殊にストーリー後半は「戦争」の凄惨な被害が言葉も出ないほどに重く横たわることになります。右手を失い、大切なものがバタバタと飛び去って行ってしまう中で、すずは苦しみを抱きながらも受容と反骨が入り混じったような態度で、その後も変わらず呉に「生活」することを選び取ります。
露骨にポジティブでもなく、露骨にネガティブでもなく、多くの戦争的背景を経由しながらも、最終的にはすずたちの「生活」にずっとスポットライトが当たり続けるという構成に独自のオリジナリティを感じました。
このアプローチは、明確に映画の属性を固定することによって間口を狭めてしまうことを回避しながらも、転じてだからこそ大きな「反戦」を表現することにも繋がっていると言えるでしょう。
次に、ここからは少し深読みですが、すずの「絵を描く」ということが縦軸となって様々な要素を含んでいそうだなと感じました。
すずというキャラクターの奥行きを担う役割でもあり、戦時中には最も無駄とされる「創作」がそれでもひっそりと強く生き続けているというメッセージでもあり……。
また、最初の空襲のシーン(円太郎がすずと晴美を庇って伏せるところ)に於いては、空に浮かぶ爆煙がカラフルな絵画的表現を伴って描かれています。その空に対して、すずは一瞬見惚れてしまうわけですが、当然看過できないはずの「戦争」風景でも、時に危うい魅力を放ってしまうという、人々の価値観への侵襲性を示唆しているような気もします。
更に言えば、「戦争」という悲惨な出来事が、誰かや何かの一存で、それこそ紙に絵筆で描くかのような手軽さで始まってしまうという恐ろしさも表現されているように感じました。
目の前に起きている事象を処理する暇もないまま、気づいたら世界中でドンパチ行われはじめ、何が何だか分からないまま、それでも「生活」は存在していく……。
これは、すずの幼少期時代に於ける虚実入り混じるような体感に近いものと言え、そういう咀嚼しようのない独特なムードが戦時下にはあるのかもしれません。
そのほか、終戦宣言放送後の場面では、さりげなく太極旗が掲げられるカットののち、すずが我が国の加害性に気づいて涙するシーンがあり、我々が考えなくてはならない問題もしっかり挿入されています。
国内外問わず、政治/外交/戦争/エネルギー問題など非常に緊張状態にある今こそ、根本的な平和を「戦争」観点と「生活」観点の両面から改めて見つめ直すことができる、重厚な映画でもあるんじゃないでしょうか
皆さんも、「余裕があるとき」に是非観てみてください。
余談ですが、僕はここ数年「生活」をテーマに生きています。大変なことも多いですが、「生活」は必ず毎日そこに在るので、ある種の拠り所のような気もします。
これから先、「生活」はどうなるのでしょうか。この映画によって我々が受けた刺激は、どこへと向かうのでしょうか。今まさに行われている政治も、どこへ向かうのでしょうか。
気を引き締めながら、これからも「生活」をしようと思いました。
おわりに
ということで、今回はこの2本。それぞれ方向性の異なる良いインプット&アウトプットになったのではないでしょうか。
今後のことですが、職員さんに紹介してもらった作品があと2つあるので、次回はそれらについて書こうと思っています。そして、その次の最終回で「まとめ」にあたるようなコラムを載せて、この『自世界拡張プロジェクト』は一旦幕を閉じる予定です。
変わらず最後まで興味を持っていただければ嬉しいです。それでは!
どうも。「かんりしゃ」です。
また、「ちゅん」からリクエストもらいましたので、一つの例として「かんりしゃ」から「疲れ」の文章を書かせてもらいます。
これは大変よいテーマですね。
人間生きてたら、ほとんどの人が「疲れ」を体験してそうやし、「疲れたー」と言ったら理解しあえてそうやけど、けどそれぞれまったく違うものをさしてるかもしれませんね。
とはいえ、ここでふと思いつきました。
100mダッシュした後の、はーはー言うような「疲れ」は、何か多くの人で似てそう。
それに比べて、生活の積み重ねや人間関係の「疲れ」は、人によってもしかしたら全然ちゃうかも。
これは「からだ」をもとにしているか、「こころ」をもとにしているかの違いなのかもしれませんね。
どっちも「疲れたー」と言いますが、それはだいぶ違って「日本語が足りてない」状態かもしれません。
「からだ」の疲れは、これ以上走れない、等の限界がまだわかりやすい
「こころ」の疲れは、この限界のラインが「からだ」に比してわかりにくい。だから自他ともに無理したりすれちがったりしやすいのかもしれません。
自分自身の「疲れ」のことを思うと、毎日疲れているとも言えそうです。
けど、about5/7のところでも書きましたが、「かんりしゃ」は自分でやりはじめたことがメインの日々なので、「イヤな疲れ」ではありません。
いわゆるこの「疲れ」は、「充実感」につながりやすい「疲れ」になるのかも。「イヤな疲れ」は単なる「疲れ」ですね。
じゃあ、「イヤな疲れ」って何でしょう。何が「良い疲れ」なのでしょう。
その違いもおもろそうやし、ただ「かんりしゃ」の場合は「イヤな疲れ」でも「良い疲れ」でも、それを解消(なぞは本質的にはできなさそうですが)を目指して、日常とは異なる何かをしてくなってそうに思えました。
疲れの感覚はちゃうけど、解消手段は似てるのかも?
こんな感じで、イントロ兼今後の人への「かんりしゃ」なりのバトンとして、記事を終えてみます。
みなさんの記事を楽しみにしています。
お疲れ様です。毎度、様々な形でこくりのホームページに現れる、スタッフの「ちゅん」です。
今回、新たなリレーブログ企画として、『疲労って、何?ブログ』を立ち上げることにしました。第1弾の『友だちブログ』、第2弾の『About 5/7ブログ』に続いて、第3弾ですね。今まで色んな方に寄稿してもらっており、お世話になってます。
さて、今回のテーマはズバリ「疲労」。
僕自身かなり疲れやすいことを自負しており、それは生来の身体的/精神的特性や、環境、生活、人間関係などなど、様々なものが漠然と依り集まって、「疲労」に繋がっていると思われます。
では、そんな漠然としている「疲労」って具体的には一体何なのでしょうか?
僕たちは日頃から「疲れ」まくっており、その感覚自体はまごうことなき確かなもののはずですが、何がどうなったら「疲れ」て、「疲れ」ているときには何が起きているのかといったことを、じっくり考える機会は案外少ないのではないでしょうか。
医学的には色々とロジカルな研究がなされているんでしょうけど、今回は一旦そういうところは置いといて、それぞれがそれぞれの、「手作りな疲労研究」を行ってみませんか?
毎度のことですが、これだけでは何を書けばいいか分かりにくいかもしれないので、個人的に知りたい要点を何個か以下にまとめてみました。あくまで例なのでそんなにお気になさらず。
・普段、あなたは疲れていますか?また、自分が疲れているということを意識したり考えたりしますか?
・その疲れは、頑張れば我慢できるものですか?我慢ならないものですか?正直、我慢ならないけど何とか頑張って乗り越えているものですか?
・あなたは自分のことを疲れやすいタイプだと思いますか?
・どういう状態の時、どんなことをしている時に、あなたは疲れを感じますか?
・疲れてしまっているときは、具体的にどうなりますか?
・あなたの疲れは、どちらかと言えば「身体的」なものですか?「精神的」なものですか?
・自分が疲れないように工夫していること、気をつけていること、アイデアなどはありますか?
・改めて、「疲れる」って一体何なんでしょうか?
これらに沿って書いていただいてもいいですし、「疲労」という大テーマに沿っていれば、内容も書式も自由に書いていただければと思います。
また、書き方の一例として「かんりしゃ」さんの場合も参考にしてみていただければと思います。
よろしくお願いします〜
どうも。「かんりしゃ」です。
春やし、気候がよいので、金曜の最後のコマによく歩きに行ってます。
いろいろあり、都度都度でアップできてなかったので、このブログでアップします。
「お花見」



「頭からっぽにしたい写真」




「春を探した写真」




「藤まつり」の写真

よい写真たちですね☺
何かと葛井寺に行ってるのが、よくわかりますね笑。
春のイラストです




何となく、人生が垣間見えるようなイラストですね
どうも。「かんりしゃ」です。
新年度は、やらないといけないことが山のように積みあがっており、大変です。
その中のうちの1つとして、「いい感じで事業所してますか?」というのを、大阪府から聞かれており、それをちゃんと公表しなさいよ、とのことなので、ここに公表します。
正直、こういう形式的なことが苦手で、あまり気乗りしませんが、しなさいよ、と言われているのでします。
ですので、下記は読んでもあまり楽しいものではありません笑。
↓↓↓
職場環境要件、実施している者を記述しています
・法人や事業所の経営理念や支援方針・人材育成方針、その実現のための施策・仕組みなどの明確化
・職業体験の受入れや地域行事への参加や主催等による職業魅力向上の取組の実施
・働きながら国家資格等の取得を目指す者に対する研修受講支援や、より専門性の高い支援技術を取得しようとする者に対する各国家資格の生涯研修制度、サービス管理責任者研修、喀痰吸引研修、強度行動障害支援者養成研修等の業務関連専門技術研修の受講支援等
・研修の受講やキャリア段位制度と人事考課との連動によるキャリアサポート制度等の導入
・上位者・担当者等によるキャリア面談など、キャリアアップ・働き方等に関する定期的な相談の機会の確保
・職員の事情等の状況に応じた勤務シフトや短時間正規職員制度の導入、職員の希望に即した非正規職員から正規職員への転換の制度等の整備
・有給休暇を取得しやすい雰囲気・意識作りのため、具体的な取得目標(例えば、1週間以上の休暇を年に●回取得、付与日数のうち●%以上を取得)を定めた上で、取得状況を定期的に確認し、身近な上司等からの積極的な声かけ等に取り組んでいる
・有給休暇の取得促進のため、情報共有や複数担当制等により、業務の属人化の解消、業務配分の偏りの解消に取り組んでいる
・業務や福利厚生制度、メンタルヘルス等の職員相談窓口の設置等相談体制の充実
・短時間勤務労働者等も受診可能な健康診断・ストレスチェックや、従業者のための休憩室の設置等健康管理対策の実施
・事故・トラブルへの対応マニュアル等の作成等の体制の整備
・現場の課題の見える化(課題の抽出、課題の構造化、業務時間調査の実施等)を実施している
・5S活動(業務管理の手法の1つ。整理・整頓・清掃・清潔・躾の頭文字をとったもの)等の実践による職場環境の整備を行っている
・業務手順書の作成や、記録・報告様式の工夫等による情報共有や作業負担の軽減を行っている
・業務支援ソフト(記録、情報共有、請求業務転記が不要なもの。)、情報端末(タブレット端末、スマートフォン端末等)の導入
・業務内容の明確化と役割分担を行い、福祉・介護職員が支援に集中できる環境を整備。特に、間接業務(食事等の準備や片付け、清掃、ベッドメイク、ゴミ捨て等)がある場合は、間接支援業務に従事する者の活用や外注等で担うなど、役割の見直しやシフトの組み換え等を行う。
・1法人あたり1の施設又は事業所のみを運営するような法人等の小規模事業者であり、各種委員会の共同設置、各種指針・計画の共同策定、物品の共同購入等の事務処理部門の集約、共同で行うICTインフラの整備、人事管理システムや福利厚生システム等の共通化等、協働化を通じた職場環境の改善に向けた取組の実施
・ミーティング等による職場内コミュニケーションの円滑化による個々の福祉・介護職員の気づきを踏まえた勤務環境や支援内容の改善
・地域社会への参加・包容(インクルージョン)の推進のため、モチベーション向上に資する、地域の児童・生徒や住民との交流の実施
・利用者本位の支援方針など障害福祉や法人の理念等を定期的に学ぶ機会の提供
・支援の好事例や、利用者やその家族からの謝意等の情報を共有する機会の提供
↑↑↑
よい事業所であるよう、今後とも精進してまいります。
はじめに
どうもです。「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してもいいかな」のマインドで、色んなインプット&アウトプットを試みているこのプロジェクト、第4回です。今回はやや特別回という感じで、写真がいっぱいですよ。
ⓐ「ちくわ」との共同プロジェクト 『スーパー・ネイチャー・ツアー』
「ちくわ」さんとの共同プロジェクトも今回で最終回になりました。最後はドカンと行こうという感じで、近所の「大井ふれあい広場」という公園に、自然や運動などの感覚的体験を求めて繰り出しました。どうやら、下水処理施設の屋上を公園として開放している場所のようです。
元々、僕は合理/論理/理性などの中で暮らしすぎているところがあり、この機会にそれらとは対照的な体験を得ても良いんじゃないかという脈絡で、今回の活動が決定した次第です。その名もスーパー・ネイチャー・ツアー!(?)
ですから、このアウトプットもできるだけ文章量を抑えめにして、そういうメタ的なものに搦めとられないアプローチを心掛けました。

↑出発。大きな道路に沿って、自転車を漕ぎます。天気は良いですが、寒いぜ……。

↑道中で見つけた小さな公園。滑り台に全てを託しすぎている。

↑まだ道中。高架下、補修の構造がカッケェ。

↑もう着くというところで、小さな公園2に遭遇。やっぱり滑り台に全託し。

↑やっと公園に到着!しかし、自転車を停めるところがいまいちピンと来ない事態に……。「北駐輪場」の看板も草むらに身を隠していました。


↑何とかまだピンと来る駐輪場を探して停めたのち、公園に繋がる階段の方へ。こんな無骨な基地みたいな場所から上がるんですか!?

↑半信半疑で階段を上ると、なんと「ふれあい広場」の看板が真正面からお出迎え!


↑ひ、ひ、広い〜〜!!空が近い〜〜!!

↑色々と驚きながらも、持ってきたフリスビーで運動体験。風が強くて苦戦しましたが、面白かったです。あまりの広さと無人さに、滅亡した世界で唯一生き残った2人が暇つぶしで遊んでいる気にさえなりました……。



↑太陽光発電の看板、オフェンシブな木の枝、遊ぶ人任せすぎる広場などに癒されたあとは、公園から降りて外周にある散歩道へ。


↑冬なので花の装いは控えめでしたが、春にはこの沿道に桜が咲くそうな……。
そんなこんなで満足した僕たちは、自然たちに別れを告げ、またせっせと自転車を漕いで帰路に就きました。
おわりに
という感じで、大変楽しいツアーでした。自転車を漕ぐのがかなり疲れましたが、そういう身体的なフィードバックも含めて良い自世界拡張になった気がします。これで「ちくわ」さんとの共同プロジェクトは終了ですが、この自世界拡張プロジェクト自体はあと数回更新しますので、もうしばらく是非に。
以下、 「ちくわ」さんのアウトプットも載せておきますね。
***

どうも。「かんりしゃ」です。
壮大な情報量の、「ちゅん」の『ASDとVOCALOID』へのアンサーです。
まず、この量や文章感が「ちゅん」らしくてよいですよね。
「点線を実線に」が、今回の「ちゅん」のテーマだったように思います。
VOCALOIDという音楽のあり方は、「ちゅん」にとっては「実線感」を得やすいものなのでしょうね。
そうすると、この「実線」って何なんやろうところを「かんりしゃ」なりに検討し、アンサーとします。
「かんりしゃ」が推察するに、「ちゅん」は音楽のアイデアや、それに留まらず心にあるかたちにならない何かをたくさん抱えているのでしうね。
それはかたちにならず、誰かに(自分でも)みてもらえないので、あるのかないのか、何か自分でも判然とせえへんのやと思います。
けど、何かぐるぐるしたものやモヤモヤしたもの、熱っぽいものが「ある」のは確かなのでしょう。
判然とせえへんけど、確かに心の中にはあってそれを出したい感じ!
人によってはそれらを「衝動」と呼ぶのかもしれません。
それが何か外側にかたちとしてあらわれた時に「実線感」が得やすいのでしょう。
下記蛇足。
同時に、「点線」を抱えているその人の「からだ」は、まがうことなく「実線」です。
からだはその人のからだとして完結しており、点線ではありません。
けど、自分のからだと自分のとして充ちたりて感じること、このかたちとしていつくしみながら受け入れることは、なんだか難しそう。
臨床心理学は、この実態としての代替不可の各自のからだに、点線的なこころや思いとのアンバランスさをみつめる学問と言えそうです。
んー、アンサーのアンサーが必要そうな、ややこい文章になりました。以上!!
どうも、「ちゅん」です。気づけば、もう第4回。手応えがあるようなないようなで頑張っています。
今回のテーマは『VOCALOID』。僕の大きなルーツの一つであるVOCALOIDは、僕の生き方さえも変えてしまいました。
1.点線が実線へ
いやいや『VOCALOID』って何やねん、と。そうですよね。僕もしっかり詳しくはないのですが、ちょっと概要というか簡単な歴史みたいなのをまず解説したいと思います。
VOCALOID(略:ボカロ)というのはヤマハが開発した音声合成技術、およびその応用製品等のことでして、広義にはいわゆる、『初音ミク』とか『鏡音リン』とかの人工歌唱ソフト/キャラクターのことですね。これらが開発されるまでも、平成初期の頃からパソコン上で音楽を作るDesk TopMusic(DTM)という制作手段は少しずつ開発が進み確立されつつあったのですが、2007年に初音ミクという圧倒的なアイコンが登場してからは、その間口が一気に広がったように感じます。
「MV」 千本桜 WhiteFlame feat 初音ミク
①『千本桜 feat. 初音ミク / 黒うさP』(2011年)
↑おそらくVOCALOIDで一番有名な(気がする)曲。
インストも素晴らしい音楽の在り方だと思いますが、やっぱり歌が入っている方が多くの人に届きやすいですよね。ただ、音楽を作りたい人の全てが歌を上手く歌う技術と環境があるとは限りません。そんな、「作りたい曲があるのに」、「浮かんでいる曲があるのに」、という想いを救ったのがVOCALOIDでした。クリエイターの魂が籠もった歌をVOCALOIDは代わりに歌い上げ、その革新とカルチャーは瞬く間に多くのリスナーを生み出すことになります。
それまでの音楽スタジオに入り浸るような制作手段から解放され、クリエイターたちはワンルームのパソコンからこっそりでありながらもだからこそ熱心に曲を作ることが可能になりました。それまでは社会にそんなもの存在しないとされていたアイデアの芽たちが、どんどんVOCALOIDの力を借りて花開き、”点線の音楽が実線に”なったのです。
Chinozo ‘グッバイ宣言’ feat.FloweR
②『グッバイ宣言 feat.flower / Chinozo』(2020年)
↑僕はあんまり好きではないのですが、近年かなり流行った曲。驚異の1.4億回再生。
だから、僕にとって初音ミクに勝る歌姫なんて居ません。彼女以上にクリエイターとリスナー両方の命を救った歌手が居るでしょうか。
2.VOCALOID曲が持つ音楽性の分解
ここからはVOCALOID曲が持っている音楽性みたいなものを分解してみようと思いますよ。何となくザザザーっと要素を羅列していったあと、既存の曲を紹介しながら照らし合わせてみたりもします。とは言え結構主観が混ざってるので、悪しからず。
[1]ボカロ性
おそらくパブリックイメージとして定着してるであろう、所謂ボカロっぽさです。早口で捲し立てたり、難解な言葉を使ったり、世界観を強く打ち出したり、ブラックな表現を使ったりなど、言ってしまえば中高生が喜びそうな音楽性です。
[2]平等性
ハイブランドの機材、業界的なコネクションなどがなくとも、曲を制作することができ、それが成立すると言った要素です。
[3]天才性
メジャーシーンの中に溶け込むには、才能以外の外交的な能力もある程度求められたりしますが、ボカロ界には才能一点突破の天才がゴロゴロいます。
[4]削命性
ボカロシーンには、良くも悪くも追い詰められている人が結構居ます。そんな人が等身大で綴った曲は多くのリスナーの胸を打つことがよくあります。「曲を書かないと気が狂いそう」といったような命を削っているかどうかを、変な言葉ですが削命性としました。
[5]洗練性
以下、3つは結構似ていると思いますが、一応分けてみました。
メジャーシーンの音楽は、音の数が多かったり、ミックスの技術が高すぎることによって、逆に音と音の境界が曖昧で実体が掴みづらいこともあったりしますが、ボカロ界では等身大ですっきりした曲にも出会えます。シンプルイズベストってやつ?
[6]原石性
これはなかなか説明しにくいですし、ただの僕の思想かもしれません。要は、色々と技術を覚えたり権威的な環境に囲われたりして記号的な宝石に収まってしまうより、粗っぽくてその人自身が見え隠れする原石のままの方が良くない?みたいなことです。どうしても、磨かれていく過程で削ぎ落としてしまっているものに目が向いちゃうんですよね。
[7]純粋性
ボカロシーンには、曲をヒットさせて生活をしようなどといった音楽にとってある意味邪念とも言えるような魂胆を全然持ってない人もちらほら居ます。純粋に音楽延いては自分というものを突き詰めている曲は聴いていてカッコ良いです。
おそらく一般の方がボカロと聞いて思い浮かべるイメージは[1]のボカロ性がほとんどではないでしょうか。ボカロシーンにはボカロっぽくない曲もたくさんありますし、何なら僕はそっちが本流というか本質的な気さえしてます。ということで、これら色んな性質を持った曲たちをいくつか紹介したいと思います!
Kikuo – Sea Is
③『Sea Is feat.初音ミク / Kikuo』(2015年)
[2]平、[3]天、[5]洗、[6]原、[7]純あたり?
↑ちょっとこの曲は凄すぎますね。凄すぎて意味わかんないので、是非聴いてみてください。
鏡音リン / スプリンクル(Sprinkle)
④『スプリンクル feat.鏡音リン / ライブP』(2014年)
[5]洗、[6]原、[7]純あたり?
↑もろもろ編曲のクオリティなどかなりプロレベルですが、商業的ないやらしさがなく、美しくまとまっています。これだけ素晴らしい曲でもあんまり有名ではなく、ボカロシーンではこういう現象がよく起こります……。
wowaka 『裏表ラバーズ』feat. 初音ミク / wowaka – Ura-Omote Lovers (Official Video) ft. …
⑤『裏表ラバーズ feat.初音ミク / wowaka』(2009年)
[1]ボ、[2]平、[3]天、[5]洗、[6]原、[7]純あたり?
↑VOCALOID曲の金字塔。米津玄師もwowaka氏の曲を聴いた時、 あまりの衝撃にご飯が食べられなくなったそう。ボカロっぽさの祖とも言えるwowaka氏ですが、2019年に急性心不全により亡くなりました。
siinamota / 椎名もた – Goodbye Everyone / さよーならみなさん
⑥『さよーならみなさん feat.GUMI / 椎名もた』(2015年)
[1]ボ、[2]平、[3]天、[4]削、[5]洗、[6]原、[7]純あたり?
↑椎名もた氏も本当に天才だったと思います。時に危うさを秘めながらも精力的に曲をリリースしていた中、2015年に20歳の若さで亡くなりました。そのバックボーンに何があったのかは分かりませんが、今でも椎名もた氏のことを思い出して胸が切なくなります。
3.VOCALOIDに対しての所感
ここまで色々と僕なりにごにょごにょ分析してますが、ここでVOCALOIDというものに対しての個人的な所感を記しておこうと思います。偏った感覚を垂れ流すことになりそうですが、VOCALOIDだけに留まらない大事なことにも繋がりそうな気がしています。
さて、どこを切り口にしようかなといった感じですが、まず、僕の敬愛する『みきとP』というボカロP(今更ですが、VOCALOIDを使用して曲を作るアーティストのこと)について。僕がVOLALOIDを聴くようになったきっかけの人で、大きく影響を受けました。
みきとP 『 僕は初音ミクとキスをした 』 MV
⑦『僕は初音ミクとキスをした feat. 初音ミク / みきとP』(2013年)
↑この曲を聴いて雷が落ちました。「VOCALOIDでこういうロックをやっていいんだ」と。
この曲自体が、曲を作るということとVOCALOIDのことを美しく描いていますね。このコラムで言いたいことのほとんどのような気もします。何にせよ、0が1になりそれが膨らんで実体を持つということは凄いことであり、凄いことでありながらもごく当然にそれを行うことができる環境がもっとあればいいなと感じます。
そこからみきとPはほぼ順調にキャリアを重ね、2022年にはこういう曲を発表します。
みきとP『 E S P R 』MV
⑧『 E S P R feat.星尘 infinity / みきとP』(2022年)
シャープなセンスで非常にカッコいい曲ですね。この曲はレコーディング風景のドキュメント映像も併せて公開されており、そこでは一般的に流通している曲とほとんど遜色ない規模感で制作されていることが窺えます。楽器系はプレイヤーの人にある程度任せつつ、みきとPも監督に近い立場で調整に加わっていく形です。この映像を初めて観た時、プロたちの洗練された仕事に感動しつつも、「いやVOCALOIDでここまでやっちゃうんかい」という疑問は拭えませんでした。
みきとPは元々バンド畑出身の方なので、当初からどれくらいDTM全開の制作環境だったかは分かりませんが、アーティストとしてのキャリアを積んでいく中で仲間と出会い、よりハイクオリティな制作環境を志向するようになっていったという流れは少なからずあると思います。勿論それで全然構わないんですが、一方で「そこまでしてVOCALOIDに歌ってもらう意義って何なんだろう?」とも感じるんです。これほどの環境を構築できるのであれば、優秀なボーカリストにもオファーできるでしょうし、実際に生身の人間に歌ってもらっているバージョンもあります。どれだけ職業ミュージシャンとして大成しても、VOCALOIDへの愛は変わらないという表明なのかもしれないですけど、境遇上もうVOCALOIDを使う妥当性がないのにノルマ稼ぎとしてVOCALOIDを使っているのであればそれはそれでどうなんだろうというか……。まあこんな感じで、すごく嬉しいよう
な、すごく寂しいようなで複雑なんですよね。曲自体は超カッコいいので尚更。
こういう「VOCALOID(にこだわること)とは何なのか」みたいなものにドデカい一石を投じたのが、ハチ(米津玄師)の『砂の惑星』でしょう。
ハチ – 砂の惑星 feat.初音ミク , HACHI – DUNE ft.Miku Hatsune
⑨『砂の惑星 feat.初音ミク / ハチ』(2017年)
新進気鋭のボカロPからスタートし名を上げたあと、段々と本人名義の活動にシフトしていた米津玄師が、突然”決別”ともとれる内容のVOCALOID曲をアップしたのです。実際は、マジカルミライというVOCALOIDのイベントのために米津玄師が書き下ろした曲でして、本人も色々考えた上で制作したようです。
ボカロ界を”砂の惑星”に例え、”あとは誰かが勝手にどうぞ”という歌詞を筆頭に、彼なりの(おそらく)激励が描かれたこの曲は大きな議論を呼びました。
細かいところに関しては一旦省きますが、VOCALOID使用に対しての明確な表明を行ったのは、形はどうあれ米津玄師の最大限の愛だったように感じます。こうしてある意味でピリオドを打つことも誠実でしょうし、変わらずにずっとVOCALOIDを使うことも誠実でしょうし、解釈は分かれますね。
とまあVOCALOIDに託しているものがそれぞれ異なるんです。カウンターカルチャーとして始まった歴史を汲んでいる人もいれば、シンプルにひとつの楽器的アプローチとしている人もいて様々です。
個人的に僕は、ボカロシーンが潤ったり、そういうアーティストがバンバンお金を稼いだり、メジャーシーンの中で受け入れられたりみたいなことは正直どっちでもよくて、曲というものを作りたい人が実際に作ることができる環境が維持されればそれでいいかなと思ってるんです。チャプター1で触れた”点線が実線になる”みたいなことはそういうことで、僕にとってはそこに「VOCALOID」というものが在ると思っています。まぁこれも様々ですね。
4.ASDとVOCALOID
【巡音ルカ】ダブルラリアット【Double Lariat】【HD】
⑩『ダブルラリアット feat.巡音ルカ / アゴアニキ』(2009年)
↑本当に素晴らしい曲です。
VOCALOID自体に関しては、チャプター3で大体言えました。ここからはどうASDと繋げようかなと言ったところですが、やっぱり”点線が実線になる”を深掘りすることになりますかね。
僕(/ ASD者)は表情や言動の顕現が比較的弱い場合が多く、また変化や決断に多大なるコストがかかるために人生に於いてのキャリアをずんずん押し進めていったりすることもあまりできません。その結果、外側/社会からは「何もない」と観測/結論付けられることもしばしばです。傍から見れば、「何も表さない(ように見える)」「何もしていない(ように見える)」のでその評価になることはしょうがない気もしますが、本来は全然そんなことないんですよね。これはASDに限らず、社会的マイノリティの人たちにも当てはまることのような気がします。
その中で、「いやいやあるんやで」と示すことができるもののひとつが音楽だったりしますが、この音楽でさえも社会的階級やコネクションと連動しているためになかなかスムーズではありませんでした。そこから時代と技術は進み、市井の僕たちにも少しずつ作曲みたいなものが身近になってきました。実際はDTM環境を整えるためにも多額のお金がかかってしまうので、そういうところからまだまだ脱却できてないわけですが、少なくとも以前よりかは平等に近づいたと言えそうです。
そういう見る角度を変えたり環境が整備されたりすることによって、「ない→ある」になるという考え方の根幹/象徴が、僕にとってVOCALOIDなんですよね。あの日、VOCALOIDと出会ってからずっと、じんわりと自分の中の大事なフィロソフィーになっていきました。まあもっと言えば、その前段にある「そもそも何もなかったらダメなのか?」という大きな疑問もあるんですけどね。
少し逸れますが、こくりのインタビュー企画『MuSuBu 第1弾 石田卓也さん』
に於いて、心理シの石田先生も似たようなことを仰ってくれています。
「ある」ということの根拠を、「常識的に確固たる生産を順調に続けている」ということのみに限定してしまうと、多くのものが見えなくなってしまうように思います。
そしてここから更に発展させれば、「現実」って何なんだろう?というテーマに飛躍します。例えば、個人の頭や心の中だけにある思いや考えは、実際に外側へ向かってカタチ化されないと存在していないのでしょうか?
そして、そのカタチ化も現状の社会がどれだけサポートしてくれるかによって難易度が変わり、そうして生まれたカタチを評価する時でさえも現状の社会に浸透している暫定的な規範や常識に照らし合わせて行われるでしょう。
かなり極端でデカい話になってきてはいますが、何にせよ、何が「現実」で、何が「存在」で、何が「あって」、何が「ないか」、なんて一概には言えないのでは?ってことです。これらの話は結構「障害」みたいなものにも関わってくるのですが、流石にデカすぎるテーマなので今回は一旦ここで筆をおくことにします。
ということで、本当に長いコラムをお送りしました。回を追うごとに分量が増えてきており、これは良くも悪くもですね……。ただ、毎日ありのまま生きているだけなのにこれだけインプット/アウトプットが膨れ上がってしまうということにも、僕(/ASD)の特性が表現されているとも思うので、そもそもそういう狙い/コンセプトだったりします。
次回か次々回ぐらいがラストですかね。変わらずぼちぼち頑張ろうと思います〜。