5月のイラストです。
彼の生活やこれまでが、何か想像される絵たちですね。


5月のイラストです。
彼の生活やこれまでが、何か想像される絵たちですね。


はじめに
早いもので、第5回になりました。「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してもいいかな」のコンセプトで、インプットandアウトプットを記録しているブログです。
ⓐ「かんりしゃ」さんからの紹介 ラーメン屋『みつ葉 あべの出張所』
職員「かんりしゃ」さんから、こくりとも縁のあるラーメン屋『みつ葉』さんのつけ麺をオススメされました。
『みつ葉 あべの出張所』さんはあべのHoop地下1階のフードコートにあり、そこで提供される「割り箸」を箸袋に詰める作業を、こくりが仕事の一環として行っています。
なので、日頃から『みつ葉』『みつ葉』とはよく聞いていたわけですが、まだ食べたことがなく気になっていた僕にとって、これは良いニュアンスの自拡になりそうな予感がしました。
ということで、行ってきましたよ。いきなりですが、つけ麺の写真、どーん!

まず、僕たちに馴染みのある割り箸がちゃんとあったことに感動しました!君、ここに居たんだな……涙
そして、肝心の味ですが、すごく美味しかったです!麺も香りが豊かで食べ応えがあるし、スープも芳醇でクリーミーな味わいでした。チャーシューやカイワレなどのトッピングも良いバランスで花を添えており、一品として上手くまとまっているなと感じました。ごちそうさまです〜
と、総合的に良い食事体験になったわけですが、ここからは少し、僕にとって「行ったことのない飲食店で食事を試みる」ということのハードルについて解説しておこうと思います。
まず、前提として僕はかなり少食なので、飲食店で食事を行うときには、その量や刺激が予めすごく気になります。「食べきれるかな?」「しんどくならないかな?」といった身体的な不安……。常に頭の片隅にその意識があって、僕にとって食事という行動にはうっすらパズル性が帯びています。
加えて、ASDの研究ではよく語られる「常同性」という特性が僕にはあり、簡単に言えば「常に同じ行動/状態/状況/生活を望む」といったところでしょうか。つまりは、反復的な生活から逸脱して新しいことを試みるときに、大きな心理的負担/覚悟が伴うということです。こればっかりはなかなかニュアンスが伝わりづらいかもしれませんが、結構しんどいことなのです。
更に、フードコートってシステムが独特というか結構セルフサービスなんですよね。
どう列に並べばいいのか、食券システムならどう買ってどう伝えればいいのか、提供はどのカウンターで行われるのか、食器類はどこからどこまでセルフで確保するのか、食器はフードコートのどのゾーンまで持っていっていいのかetc……。
「そんなの何か大体でうまいことやればええやん」と言われそうですし、結果的にはある程度脈絡を読み取ってアジャストするんですけど、この予測できなさというか不透明さみたいなものは僕にとって馬鹿にできない心労だなと気づきました。慣れればよりオートマチックに食事にありつけるから、良い側面もあるんですけどね。
とまぁ、食事ひとつ取っても、これらの身体的/心理的な高いハードルが僕にはたくさん存在しており、それなりに大変ではあるのです。
実際、「かんりしゃ」さんに紹介をしてもらってから、随分と間が空いてから行くことになりました。何なら、前述のハードルを下げるために、一度下見にだけでも行こうかなとさえ考えていました。
結果的には、他の用事終わりにたまたまタイミングとコンディションが合ったため、一撃で食事をするところまで漕ぎ着けましたが、たかがフードコートの飲食店で食事を行うことに下見まで行こうと考える人間がどれだけいるでしょうか。
自分には困難がたくさんあるということをアピールしたいわけではないんですが、今回の、あくまで日常性の高い自拡体験によって、やっぱり一般的な人との感覚とは少しズレが有るのかもなと痛感した次第です。
皆さんは、新しいことや新しい食事を行うときに、どのような思いになりどのような影響がありそうですか?
ⓑ「かんりしゃ」さんからの紹介 映画『この世界の片隅に』
https://watch.amazon.co.jp/detail?gti=amzn1.dv.gti.373a53a4-960e-4971-acc6-f96e3da8a5e1&territory=JP&ref_=share_ios_movie&r=web
「かんりしゃ」さんから、アニメーション映画『この世界の片隅に』を紹介してもらいました。
原爆投下前後の広島を舞台に、主人公すずが工夫とユーモアを凝らして懸命に生き抜く様を描いた映画であり、かなりヒットした作品です。僕も存在自体は知っていました。
しかし、このコラムや『 #3「ちゅん」の『ASDと映画』 』でも度々書いているように、様々なことが「荷物化」しやすい特性の僕にとって、戦争映画というものはなかなかハードルが高い存在です。そのあたりがどう影響を受けるか……。ドキドキしながら、観てみましたよ。
さて、ただでさえ多くの切り口が含まれている映画だと思いますが、まず触れておきたいのは「戦争と生活の間を行く」ような絶妙なアプローチですかね。
こういう「戦争」をテーマにした作品は、基本「戦争」を正面から描いた反戦/啓蒙的アプローチが多いと思いますが、『この世界の片隅に』は少し異なります。
すずたちの「生活」は、「戦争」の影響を多分に受けていることに間違いはありませんが、その全てが悲哀や消耗として描かれているわけではなく、即ちどんな状況でも「生活」は「生活」として逞しく存在しているということでしょう。
かと言って、「戦争」を美化/肯定しているわけでも決してなく、折に触れて、殊にストーリー後半は「戦争」の凄惨な被害が言葉も出ないほどに重く横たわることになります。右手を失い、大切なものがバタバタと飛び去って行ってしまう中で、すずは苦しみを抱きながらも受容と反骨が入り混じったような態度で、その後も変わらず呉に「生活」することを選び取ります。
露骨にポジティブでもなく、露骨にネガティブでもなく、多くの戦争的背景を経由しながらも、最終的にはすずたちの「生活」にずっとスポットライトが当たり続けるという構成に独自のオリジナリティを感じました。
このアプローチは、明確に映画の属性を固定することによって間口を狭めてしまうことを回避しながらも、転じてだからこそ大きな「反戦」を表現することにも繋がっていると言えるでしょう。
次に、ここからは少し深読みですが、すずの「絵を描く」ということが縦軸となって様々な要素を含んでいそうだなと感じました。
すずというキャラクターの奥行きを担う役割でもあり、戦時中には最も無駄とされる「創作」がそれでもひっそりと強く生き続けているというメッセージでもあり……。
また、最初の空襲のシーン(円太郎がすずと晴美を庇って伏せるところ)に於いては、空に浮かぶ爆煙がカラフルな絵画的表現を伴って描かれています。その空に対して、すずは一瞬見惚れてしまうわけですが、当然看過できないはずの「戦争」風景でも、時に危うい魅力を放ってしまうという、人々の価値観への侵襲性を示唆しているような気もします。
更に言えば、「戦争」という悲惨な出来事が、誰かや何かの一存で、それこそ紙に絵筆で描くかのような手軽さで始まってしまうという恐ろしさも表現されているように感じました。
目の前に起きている事象を処理する暇もないまま、気づいたら世界中でドンパチ行われはじめ、何が何だか分からないまま、それでも「生活」は存在していく……。
これは、すずの幼少期時代に於ける虚実入り混じるような体感に近いものと言え、そういう咀嚼しようのない独特なムードが戦時下にはあるのかもしれません。
そのほか、終戦宣言放送後の場面では、さりげなく太極旗が掲げられるカットののち、すずが我が国の加害性に気づいて涙するシーンがあり、我々が考えなくてはならない問題もしっかり挿入されています。
国内外問わず、政治/外交/戦争/エネルギー問題など非常に緊張状態にある今こそ、根本的な平和を「戦争」観点と「生活」観点の両面から改めて見つめ直すことができる、重厚な映画でもあるんじゃないでしょうか
皆さんも、「余裕があるとき」に是非観てみてください。
余談ですが、僕はここ数年「生活」をテーマに生きています。大変なことも多いですが、「生活」は必ず毎日そこに在るので、ある種の拠り所のような気もします。
これから先、「生活」はどうなるのでしょうか。この映画によって我々が受けた刺激は、どこへと向かうのでしょうか。今まさに行われている政治も、どこへ向かうのでしょうか。
気を引き締めながら、これからも「生活」をしようと思いました。
おわりに
ということで、今回はこの2本。それぞれ方向性の異なる良いインプット&アウトプットになったのではないでしょうか。
今後のことですが、職員さんに紹介してもらった作品があと2つあるので、次回はそれらについて書こうと思っています。そして、その次の最終回で「まとめ」にあたるようなコラムを載せて、この『自世界拡張プロジェクト』は一旦幕を閉じる予定です。
変わらず最後まで興味を持っていただければ嬉しいです。それでは!
春のイラストです




何となく、人生が垣間見えるようなイラストですね
はじめに
どうもです。「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してもいいかな」のマインドで、色んなインプット&アウトプットを試みているこのプロジェクト、第4回です。今回はやや特別回という感じで、写真がいっぱいですよ。
ⓐ「ちくわ」との共同プロジェクト 『スーパー・ネイチャー・ツアー』
「ちくわ」さんとの共同プロジェクトも今回で最終回になりました。最後はドカンと行こうという感じで、近所の「大井ふれあい広場」という公園に、自然や運動などの感覚的体験を求めて繰り出しました。どうやら、下水処理施設の屋上を公園として開放している場所のようです。
元々、僕は合理/論理/理性などの中で暮らしすぎているところがあり、この機会にそれらとは対照的な体験を得ても良いんじゃないかという脈絡で、今回の活動が決定した次第です。その名もスーパー・ネイチャー・ツアー!(?)
ですから、このアウトプットもできるだけ文章量を抑えめにして、そういうメタ的なものに搦めとられないアプローチを心掛けました。

↑出発。大きな道路に沿って、自転車を漕ぎます。天気は良いですが、寒いぜ……。

↑道中で見つけた小さな公園。滑り台に全てを託しすぎている。

↑まだ道中。高架下、補修の構造がカッケェ。

↑もう着くというところで、小さな公園2に遭遇。やっぱり滑り台に全託し。

↑やっと公園に到着!しかし、自転車を停めるところがいまいちピンと来ない事態に……。「北駐輪場」の看板も草むらに身を隠していました。


↑何とかまだピンと来る駐輪場を探して停めたのち、公園に繋がる階段の方へ。こんな無骨な基地みたいな場所から上がるんですか!?

↑半信半疑で階段を上ると、なんと「ふれあい広場」の看板が真正面からお出迎え!


↑ひ、ひ、広い〜〜!!空が近い〜〜!!

↑色々と驚きながらも、持ってきたフリスビーで運動体験。風が強くて苦戦しましたが、面白かったです。あまりの広さと無人さに、滅亡した世界で唯一生き残った2人が暇つぶしで遊んでいる気にさえなりました……。



↑太陽光発電の看板、オフェンシブな木の枝、遊ぶ人任せすぎる広場などに癒されたあとは、公園から降りて外周にある散歩道へ。


↑冬なので花の装いは控えめでしたが、春にはこの沿道に桜が咲くそうな……。
そんなこんなで満足した僕たちは、自然たちに別れを告げ、またせっせと自転車を漕いで帰路に就きました。
おわりに
という感じで、大変楽しいツアーでした。自転車を漕ぐのがかなり疲れましたが、そういう身体的なフィードバックも含めて良い自世界拡張になった気がします。これで「ちくわ」さんとの共同プロジェクトは終了ですが、この自世界拡張プロジェクト自体はあと数回更新しますので、もうしばらく是非に。
以下、 「ちくわ」さんのアウトプットも載せておきますね。
***

どうも。「かんりしゃ」です。
壮大な情報量の、「ちゅん」の『ASDとVOCALOID』へのアンサーです。
まず、この量や文章感が「ちゅん」らしくてよいですよね。
「点線を実線に」が、今回の「ちゅん」のテーマだったように思います。
VOCALOIDという音楽のあり方は、「ちゅん」にとっては「実線感」を得やすいものなのでしょうね。
そうすると、この「実線」って何なんやろうところを「かんりしゃ」なりに検討し、アンサーとします。
「かんりしゃ」が推察するに、「ちゅん」は音楽のアイデアや、それに留まらず心にあるかたちにならない何かをたくさん抱えているのでしうね。
それはかたちにならず、誰かに(自分でも)みてもらえないので、あるのかないのか、何か自分でも判然とせえへんのやと思います。
けど、何かぐるぐるしたものやモヤモヤしたもの、熱っぽいものが「ある」のは確かなのでしょう。
判然とせえへんけど、確かに心の中にはあってそれを出したい感じ!
人によってはそれらを「衝動」と呼ぶのかもしれません。
それが何か外側にかたちとしてあらわれた時に「実線感」が得やすいのでしょう。
下記蛇足。
同時に、「点線」を抱えているその人の「からだ」は、まがうことなく「実線」です。
からだはその人のからだとして完結しており、点線ではありません。
けど、自分のからだと自分のとして充ちたりて感じること、このかたちとしていつくしみながら受け入れることは、なんだか難しそう。
臨床心理学は、この実態としての代替不可の各自のからだに、点線的なこころや思いとのアンバランスさをみつめる学問と言えそうです。
んー、アンサーのアンサーが必要そうな、ややこい文章になりました。以上!!
どうも、「ちゅん」です。気づけば、もう第4回。手応えがあるようなないようなで頑張っています。
今回のテーマは『VOCALOID』。僕の大きなルーツの一つであるVOCALOIDは、僕の生き方さえも変えてしまいました。
1.点線が実線へ
いやいや『VOCALOID』って何やねん、と。そうですよね。僕もしっかり詳しくはないのですが、ちょっと概要というか簡単な歴史みたいなのをまず解説したいと思います。
VOCALOID(略:ボカロ)というのはヤマハが開発した音声合成技術、およびその応用製品等のことでして、広義にはいわゆる、『初音ミク』とか『鏡音リン』とかの人工歌唱ソフト/キャラクターのことですね。これらが開発されるまでも、平成初期の頃からパソコン上で音楽を作るDesk TopMusic(DTM)という制作手段は少しずつ開発が進み確立されつつあったのですが、2007年に初音ミクという圧倒的なアイコンが登場してからは、その間口が一気に広がったように感じます。
「MV」 千本桜 WhiteFlame feat 初音ミク
①『千本桜 feat. 初音ミク / 黒うさP』(2011年)
↑おそらくVOCALOIDで一番有名な(気がする)曲。
インストも素晴らしい音楽の在り方だと思いますが、やっぱり歌が入っている方が多くの人に届きやすいですよね。ただ、音楽を作りたい人の全てが歌を上手く歌う技術と環境があるとは限りません。そんな、「作りたい曲があるのに」、「浮かんでいる曲があるのに」、という想いを救ったのがVOCALOIDでした。クリエイターの魂が籠もった歌をVOCALOIDは代わりに歌い上げ、その革新とカルチャーは瞬く間に多くのリスナーを生み出すことになります。
それまでの音楽スタジオに入り浸るような制作手段から解放され、クリエイターたちはワンルームのパソコンからこっそりでありながらもだからこそ熱心に曲を作ることが可能になりました。それまでは社会にそんなもの存在しないとされていたアイデアの芽たちが、どんどんVOCALOIDの力を借りて花開き、”点線の音楽が実線に”なったのです。
Chinozo ‘グッバイ宣言’ feat.FloweR
②『グッバイ宣言 feat.flower / Chinozo』(2020年)
↑僕はあんまり好きではないのですが、近年かなり流行った曲。驚異の1.4億回再生。
だから、僕にとって初音ミクに勝る歌姫なんて居ません。彼女以上にクリエイターとリスナー両方の命を救った歌手が居るでしょうか。
2.VOCALOID曲が持つ音楽性の分解
ここからはVOCALOID曲が持っている音楽性みたいなものを分解してみようと思いますよ。何となくザザザーっと要素を羅列していったあと、既存の曲を紹介しながら照らし合わせてみたりもします。とは言え結構主観が混ざってるので、悪しからず。
[1]ボカロ性
おそらくパブリックイメージとして定着してるであろう、所謂ボカロっぽさです。早口で捲し立てたり、難解な言葉を使ったり、世界観を強く打ち出したり、ブラックな表現を使ったりなど、言ってしまえば中高生が喜びそうな音楽性です。
[2]平等性
ハイブランドの機材、業界的なコネクションなどがなくとも、曲を制作することができ、それが成立すると言った要素です。
[3]天才性
メジャーシーンの中に溶け込むには、才能以外の外交的な能力もある程度求められたりしますが、ボカロ界には才能一点突破の天才がゴロゴロいます。
[4]削命性
ボカロシーンには、良くも悪くも追い詰められている人が結構居ます。そんな人が等身大で綴った曲は多くのリスナーの胸を打つことがよくあります。「曲を書かないと気が狂いそう」といったような命を削っているかどうかを、変な言葉ですが削命性としました。
[5]洗練性
以下、3つは結構似ていると思いますが、一応分けてみました。
メジャーシーンの音楽は、音の数が多かったり、ミックスの技術が高すぎることによって、逆に音と音の境界が曖昧で実体が掴みづらいこともあったりしますが、ボカロ界では等身大ですっきりした曲にも出会えます。シンプルイズベストってやつ?
[6]原石性
これはなかなか説明しにくいですし、ただの僕の思想かもしれません。要は、色々と技術を覚えたり権威的な環境に囲われたりして記号的な宝石に収まってしまうより、粗っぽくてその人自身が見え隠れする原石のままの方が良くない?みたいなことです。どうしても、磨かれていく過程で削ぎ落としてしまっているものに目が向いちゃうんですよね。
[7]純粋性
ボカロシーンには、曲をヒットさせて生活をしようなどといった音楽にとってある意味邪念とも言えるような魂胆を全然持ってない人もちらほら居ます。純粋に音楽延いては自分というものを突き詰めている曲は聴いていてカッコ良いです。
おそらく一般の方がボカロと聞いて思い浮かべるイメージは[1]のボカロ性がほとんどではないでしょうか。ボカロシーンにはボカロっぽくない曲もたくさんありますし、何なら僕はそっちが本流というか本質的な気さえしてます。ということで、これら色んな性質を持った曲たちをいくつか紹介したいと思います!
Kikuo – Sea Is
③『Sea Is feat.初音ミク / Kikuo』(2015年)
[2]平、[3]天、[5]洗、[6]原、[7]純あたり?
↑ちょっとこの曲は凄すぎますね。凄すぎて意味わかんないので、是非聴いてみてください。
鏡音リン / スプリンクル(Sprinkle)
④『スプリンクル feat.鏡音リン / ライブP』(2014年)
[5]洗、[6]原、[7]純あたり?
↑もろもろ編曲のクオリティなどかなりプロレベルですが、商業的ないやらしさがなく、美しくまとまっています。これだけ素晴らしい曲でもあんまり有名ではなく、ボカロシーンではこういう現象がよく起こります……。
wowaka 『裏表ラバーズ』feat. 初音ミク / wowaka – Ura-Omote Lovers (Official Video) ft. …
⑤『裏表ラバーズ feat.初音ミク / wowaka』(2009年)
[1]ボ、[2]平、[3]天、[5]洗、[6]原、[7]純あたり?
↑VOCALOID曲の金字塔。米津玄師もwowaka氏の曲を聴いた時、 あまりの衝撃にご飯が食べられなくなったそう。ボカロっぽさの祖とも言えるwowaka氏ですが、2019年に急性心不全により亡くなりました。
siinamota / 椎名もた – Goodbye Everyone / さよーならみなさん
⑥『さよーならみなさん feat.GUMI / 椎名もた』(2015年)
[1]ボ、[2]平、[3]天、[4]削、[5]洗、[6]原、[7]純あたり?
↑椎名もた氏も本当に天才だったと思います。時に危うさを秘めながらも精力的に曲をリリースしていた中、2015年に20歳の若さで亡くなりました。そのバックボーンに何があったのかは分かりませんが、今でも椎名もた氏のことを思い出して胸が切なくなります。
3.VOCALOIDに対しての所感
ここまで色々と僕なりにごにょごにょ分析してますが、ここでVOCALOIDというものに対しての個人的な所感を記しておこうと思います。偏った感覚を垂れ流すことになりそうですが、VOCALOIDだけに留まらない大事なことにも繋がりそうな気がしています。
さて、どこを切り口にしようかなといった感じですが、まず、僕の敬愛する『みきとP』というボカロP(今更ですが、VOCALOIDを使用して曲を作るアーティストのこと)について。僕がVOLALOIDを聴くようになったきっかけの人で、大きく影響を受けました。
みきとP 『 僕は初音ミクとキスをした 』 MV
⑦『僕は初音ミクとキスをした feat. 初音ミク / みきとP』(2013年)
↑この曲を聴いて雷が落ちました。「VOCALOIDでこういうロックをやっていいんだ」と。
この曲自体が、曲を作るということとVOCALOIDのことを美しく描いていますね。このコラムで言いたいことのほとんどのような気もします。何にせよ、0が1になりそれが膨らんで実体を持つということは凄いことであり、凄いことでありながらもごく当然にそれを行うことができる環境がもっとあればいいなと感じます。
そこからみきとPはほぼ順調にキャリアを重ね、2022年にはこういう曲を発表します。
みきとP『 E S P R 』MV
⑧『 E S P R feat.星尘 infinity / みきとP』(2022年)
シャープなセンスで非常にカッコいい曲ですね。この曲はレコーディング風景のドキュメント映像も併せて公開されており、そこでは一般的に流通している曲とほとんど遜色ない規模感で制作されていることが窺えます。楽器系はプレイヤーの人にある程度任せつつ、みきとPも監督に近い立場で調整に加わっていく形です。この映像を初めて観た時、プロたちの洗練された仕事に感動しつつも、「いやVOCALOIDでここまでやっちゃうんかい」という疑問は拭えませんでした。
みきとPは元々バンド畑出身の方なので、当初からどれくらいDTM全開の制作環境だったかは分かりませんが、アーティストとしてのキャリアを積んでいく中で仲間と出会い、よりハイクオリティな制作環境を志向するようになっていったという流れは少なからずあると思います。勿論それで全然構わないんですが、一方で「そこまでしてVOCALOIDに歌ってもらう意義って何なんだろう?」とも感じるんです。これほどの環境を構築できるのであれば、優秀なボーカリストにもオファーできるでしょうし、実際に生身の人間に歌ってもらっているバージョンもあります。どれだけ職業ミュージシャンとして大成しても、VOCALOIDへの愛は変わらないという表明なのかもしれないですけど、境遇上もうVOCALOIDを使う妥当性がないのにノルマ稼ぎとしてVOCALOIDを使っているのであればそれはそれでどうなんだろうというか……。まあこんな感じで、すごく嬉しいよう
な、すごく寂しいようなで複雑なんですよね。曲自体は超カッコいいので尚更。
こういう「VOCALOID(にこだわること)とは何なのか」みたいなものにドデカい一石を投じたのが、ハチ(米津玄師)の『砂の惑星』でしょう。
ハチ – 砂の惑星 feat.初音ミク , HACHI – DUNE ft.Miku Hatsune
⑨『砂の惑星 feat.初音ミク / ハチ』(2017年)
新進気鋭のボカロPからスタートし名を上げたあと、段々と本人名義の活動にシフトしていた米津玄師が、突然”決別”ともとれる内容のVOCALOID曲をアップしたのです。実際は、マジカルミライというVOCALOIDのイベントのために米津玄師が書き下ろした曲でして、本人も色々考えた上で制作したようです。
ボカロ界を”砂の惑星”に例え、”あとは誰かが勝手にどうぞ”という歌詞を筆頭に、彼なりの(おそらく)激励が描かれたこの曲は大きな議論を呼びました。
細かいところに関しては一旦省きますが、VOCALOID使用に対しての明確な表明を行ったのは、形はどうあれ米津玄師の最大限の愛だったように感じます。こうしてある意味でピリオドを打つことも誠実でしょうし、変わらずにずっとVOCALOIDを使うことも誠実でしょうし、解釈は分かれますね。
とまあVOCALOIDに託しているものがそれぞれ異なるんです。カウンターカルチャーとして始まった歴史を汲んでいる人もいれば、シンプルにひとつの楽器的アプローチとしている人もいて様々です。
個人的に僕は、ボカロシーンが潤ったり、そういうアーティストがバンバンお金を稼いだり、メジャーシーンの中で受け入れられたりみたいなことは正直どっちでもよくて、曲というものを作りたい人が実際に作ることができる環境が維持されればそれでいいかなと思ってるんです。チャプター1で触れた”点線が実線になる”みたいなことはそういうことで、僕にとってはそこに「VOCALOID」というものが在ると思っています。まぁこれも様々ですね。
4.ASDとVOCALOID
【巡音ルカ】ダブルラリアット【Double Lariat】【HD】
⑩『ダブルラリアット feat.巡音ルカ / アゴアニキ』(2009年)
↑本当に素晴らしい曲です。
VOCALOID自体に関しては、チャプター3で大体言えました。ここからはどうASDと繋げようかなと言ったところですが、やっぱり”点線が実線になる”を深掘りすることになりますかね。
僕(/ ASD者)は表情や言動の顕現が比較的弱い場合が多く、また変化や決断に多大なるコストがかかるために人生に於いてのキャリアをずんずん押し進めていったりすることもあまりできません。その結果、外側/社会からは「何もない」と観測/結論付けられることもしばしばです。傍から見れば、「何も表さない(ように見える)」「何もしていない(ように見える)」のでその評価になることはしょうがない気もしますが、本来は全然そんなことないんですよね。これはASDに限らず、社会的マイノリティの人たちにも当てはまることのような気がします。
その中で、「いやいやあるんやで」と示すことができるもののひとつが音楽だったりしますが、この音楽でさえも社会的階級やコネクションと連動しているためになかなかスムーズではありませんでした。そこから時代と技術は進み、市井の僕たちにも少しずつ作曲みたいなものが身近になってきました。実際はDTM環境を整えるためにも多額のお金がかかってしまうので、そういうところからまだまだ脱却できてないわけですが、少なくとも以前よりかは平等に近づいたと言えそうです。
そういう見る角度を変えたり環境が整備されたりすることによって、「ない→ある」になるという考え方の根幹/象徴が、僕にとってVOCALOIDなんですよね。あの日、VOCALOIDと出会ってからずっと、じんわりと自分の中の大事なフィロソフィーになっていきました。まあもっと言えば、その前段にある「そもそも何もなかったらダメなのか?」という大きな疑問もあるんですけどね。
少し逸れますが、こくりのインタビュー企画『MuSuBu 第1弾 石田卓也さん』
に於いて、心理シの石田先生も似たようなことを仰ってくれています。
「ある」ということの根拠を、「常識的に確固たる生産を順調に続けている」ということのみに限定してしまうと、多くのものが見えなくなってしまうように思います。
そしてここから更に発展させれば、「現実」って何なんだろう?というテーマに飛躍します。例えば、個人の頭や心の中だけにある思いや考えは、実際に外側へ向かってカタチ化されないと存在していないのでしょうか?
そして、そのカタチ化も現状の社会がどれだけサポートしてくれるかによって難易度が変わり、そうして生まれたカタチを評価する時でさえも現状の社会に浸透している暫定的な規範や常識に照らし合わせて行われるでしょう。
かなり極端でデカい話になってきてはいますが、何にせよ、何が「現実」で、何が「存在」で、何が「あって」、何が「ないか」、なんて一概には言えないのでは?ってことです。これらの話は結構「障害」みたいなものにも関わってくるのですが、流石にデカすぎるテーマなので今回は一旦ここで筆をおくことにします。
ということで、本当に長いコラムをお送りしました。回を追うごとに分量が増えてきており、これは良くも悪くもですね……。ただ、毎日ありのまま生きているだけなのにこれだけインプット/アウトプットが膨れ上がってしまうということにも、僕(/ASD)の特性が表現されているとも思うので、そもそもそういう狙い/コンセプトだったりします。
次回か次々回ぐらいがラストですかね。変わらずぼちぼち頑張ろうと思います〜。
はじめに
ということで、第3回。「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してもいいかな」のコンセプトで、新しいものをインプットandアウトプットしていますよ〜。
ⓐ「おすし」さんからの紹介 映画『すずめの戸締まり』
職員「おすし」さんから、新海誠監督の大ヒットアニメーション映画を紹介してもらいましたよ。新海作品は『すずめの戸締まり』どころか、『君の名は』『天気の子』あたりも全く観たことがなかったので、これは良い拡張のような気がします。ということで、以下ネタバレ含むアウトプット。
まず、映画としての初速の速さに良くも悪くもびっくりしました。あっという間に鈴芽と草太が出会って、あっという間に惹かれ合って、あっという間に世界に問題が起きて、あっという間にドタバタロードムービーへ。「とにかくまず世界観へとお連れしますんで付いてきてください」といった感じで、ここは結構好みが分かれそうだな〜と。 ただ無理やり勘繰れば、序盤でグッと掴まないと作品/興行として成立しにくいという側面もあるんでしょうし、最初から何もかも説明しちゃうのも味気ないので、ここら辺は色々と考えてるんだろうな〜と思います。実際、鈴芽自身のバックボーンは物語が進むにつれ少しずつピースがハマっていくわけで、これが現代における「脚本」ということでもあるような。
とは言え、もうちょっと序盤の段階で鈴芽の人となりみたいなものが間接的に描写されててもいいような気がします。草太との出会いも軽すぎるし、色々と「速い」……笑。
そして、一番気になったのは我々が暮らす現実世界とのリンクですね。序盤からサブリミナル的に、LINE/マクドナルド/EVEとかがほぼ実名で登場するんですが、こういう演出は観る側の没入感をグッと深めますね。どう許可を得てどれくらいお金をかければ使用してもいいのかといったところにも興味が湧きます。そこから中盤以降はドライブシーンに於いてたくさん既存曲が使われたりしてますが、ここまでやられちゃうと、ちょっと冷めちゃう気もします……笑。
その中でも、一番重要なのは実在の震災をフィクションに使ってもいいのかという点ですかね。実在の戦争や天災そのものをテーマにしたドキュメンタリー寄りの作品、もしくは架空の戦争や天災をテーマにしたフィクションの作品なら全然構わないと思うんですが、実際に被害に遭った人がいる震災をベースがフィクションの作品の中に混ぜてしまうのは、うーんどうなんだろう。東日本大震災に関してはまだ10年少しで復興の途中でしょうし、関東大震災に関しても100年近く経っていたらOKなのかってなるとそれも違う気がするし……。
いずれにせよ、新海監督は「3.11」をずっと想いながら映画を作っていたようです。鈴芽が神戸を経由するのも、阪神淡路大震災を意識してのことだそう。こういう大事なことを改めて描くというのは「映画」の大きな役割のひとつだとは思いますが、今作のアプローチは少し賛否が分かれるかもしれませんね。
他にも、細部の軽さ/小難しさはあれこれ感じたりしましたが、キリがないのでこのへんで。総じて、スペクタクルできらきらした映画ではありました。2時間で宮崎から岩手まで。ロードムービー特有の豊かさが、自分の中で小さな思い出になった気がします。
最後にちょっとグッときたシーンを。草太が一時的に要石になったあと、色々と憔悴しながらも鈴芽は草太のアパートで入浴しますが、ああいう緊急事態の中に息づく暫定的な生活行為みたいな、日常と非日常が融合するシーンにはかなり胸を打たれました。あの一連の流れって、言葉や文章で説明しちゃうと価値がガクッと下がっちゃうわけで、こういうところは「映画」というものが持つパワーなのかもしれませんね。
ⓑ「ちくわ」との共同プロジェクト 面接『興味ないもの座談会』
職員「ちくわ」さんとの共同プロジェクトで実施した『興味ないもの座談会』についてアウトプットします。
「ちくわ」さんと一緒に新しい自拡の形式を打ち合わせする中で、お互い「話し相手が自分の興味がない話題を喋っている時にどう聞けばいいんだろう?」みたいな、会話上の小さな悩み/特性がやや共通していることが分かりまして、そこから今回の企画に発展しました。具体的には、面接形式でお互いがお互いに興味のないことを話してみて、「どう思い感じ考えるか」といったアプローチです。
例えば僕(ASD者)の場合、自分の興味のあること以外はどう接すればいいのか困る場合もあるので、そういった意味で自拡のヒントになるのではといった狙いでもあります。
肝心の「お互いの興味のない話題」ですが、それぞれが馴染みのあるスポーツの話を相手に聞かせるといった形を採りました。僕はサッカー、「ちくわ」さんはバスケです。これらをその話題にあまり興味がない相手に話してみて、相手はもちろん自分自身も「何を思い感じ考えるか」。かなり抽象的で不思議な取り組みにはなりましたが、色々と面白かったですよ。
まずは「ちくわ」さんのブロックからスタートです。僕も気になったところは止めて質問しつつ、主にバスケのルールに関して教えてもらいましたよ。色々と不思議で細かいルールがあるんだな〜と感心しました。会話上の細かいことはもう少し後で言及しますね。
次に僕のブロック。同様にサッカーのルールに関して話してみました。僕は、自分や自分の生活の中にサッカーが有るのが当たり前だったので、あまりサッカーに詳しくない人と話すのは刺激的でした。オフサイドにしたってよく分かんないですよね。
そして最後には、話してみて聞いてみて「どう思い感じ考えたか」を共有し研究しました。「相槌ってあった方が嬉しいね」、「相手が質問してくれた方がスムーズに進むね」、みたいなベーシックなものから、「それでもそれぞれ感覚が違うから上手く擦り合わせるのは難しくて当然よね」という大きな問いかけまで、結構自由に振り返りを行いました。
個人的な発見としては、自分自身が案外相手のことを考えて(=キャッチボールを意識して)会話をしようとしていたことです。こういう(自閉的)特性ですから、独善的に喋ってしまう傾向を自覚していたのですが、ここ数年の様々な関わりによって、そういう相互性みたいなものがある程度はインストールされていたようです。
それが上手く行えているかどうかは分からないですし、その姿勢のみが必ずしも正しいとは思いませんが、自分のあまり意識していないところで自分が変容していることに気づいて少し新鮮でした。
結局、「話題自体に興味がなくてもその人自体に興味があれば、ある程度は聞いていられるね」みたいなところには落ち着きました。それに加えて、「仕事」としての責任もそりゃ関係しているよねという感じ。会話のトレーニングみたいな訓練的な文脈にはあまり着地したくないのはあるんですが、それでも色々と学び得るものがあったと思います。以下、「ちくわ」さんによる感想も載せておきますね。
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<「ちくわ」の感想>
お互いに興味のない話をしてみて
日常生活のなかで、興味のない話を突発的に聞かされることはあるし、知らず知らずのうちに相手が興味のない話を自分がしてしまっていることもある。ただ、今回は最初からお互いに興味のない話をしようと決めて臨んだのが新鮮だった。
今回の構造が1対1で、無反応は貫きづらいし、意外と興味がないと思っていた話でも興味を持ててしまい趣旨とはズレる形になった。
これが講義形式や反応を制限するなど一方的な情報の提示だとまた変わった結果になったと思う。
どういう時に話に興味が持てなくなるのか考えていくのも面白そうだなぁと。 「ちくわ」
ⓒ「ちくわ」さんとの共同プロジェクト『モール手芸』
連続!「ちくわ」さんとの共同プロジェクトです。いきなりですが、下の写真のような、「モール」ってご存知ですか?

中に針金が入っていて、ググッと力を加えると形を変えることができるんです。そうやって自由にモールたちを組み合わせて、アクセサリーや装飾を作ったりする試みを今回は行いました。どうやら、巷のTikTokなんかでは結構流行っているみたいです。
そもそもこのモール手芸ですが、「今度は『ちくわ』さんがやりたいことをやりましょう」と僕が提案したことから始まりました。僕は結構、あれはやりたいこれはやりたくないという感じで生きてきたので、相手のやりたいこと(≒自分はあんまり興味のないこと)に触れることが、良い自世界拡張になるのではと考えたからです。
「ちくわ」さんもこのモール手芸に前々から興味があったそうですが、なかなかタイミングがなかったようで、今回良い機会になりました。
近くの百均に行って、カラフルなモールとアクセントになりそうなものを買い込むことから活動は始まりましたよ。思ってたよりも普通にモールというものが売っていて、少しびっくりしました。人間、興味のない商品棚って見てないものですね。

いろいろ開封済みの事後撮影ですみません。当日はすごくバタバタしていて、作るのに夢中だったのです。イヤリングなんかも買いましたよ。
こうやって、割り箸や鉛筆などの細い棒にくるくる括り付けて型を付けたりしながら、製作を進めます。

作ってて分かったんですが、モールにしたって何だかんだ針金なので、結構手が痛いです。 「ふぎーっ!」となったりします。あと、クリスマス仕様のキラキラなモールを買ったので、ラメ部分が剥がれて床にぱらぱら落ちたりもします。皆さんも同様のことをするときは、「ふぎーっ!」となる心構えと、床をコロコロ掃除できるものを準備しておくことをオススメします。
とまあそんな困難を乗り越えて、何とか完成したものがこちらです!⭐️

中央のクリスマスツリーは共作、下のリースふたつは「ちくわ」さんが作りました。どれも可愛い仕上がりになりましたよ。クリスマスツリーに関しては、謎のシナジーが突然発生して、いつの間にか出来ていました。星のオーナメント代わりにイヤリングがぶら下がっています。こういう不思議な出会いも楽しいものですね🎄
総合的に良い活動になりました。手芸みたいなものは普段まず全くやらないですし、久しぶりに手先をちまちましました。また、未知のものに対して「こうやったらどうだろう?」、「ああやったらどうだろう?」と試行錯誤したことも豊かな経験になったと思います。
「ちくわ」さんとの共同プロジェクトは、次回がラストになりそうです。ラストに相応しい活動を計画していますよ、お楽しみに。ということで、 以下、「ちくわ」さんの感想も載せておきますね(モザイクのところは本名です)。
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おわりに
このはじめにとおわりにが必要なのかどうか悩んでいます。ただでさえ爆弾文字数なのに、更に延びてしまってトホホ。とは言え、冒頭はこのブログの趣旨を説明しないといけないし、最後はまとめとして一言載せたいし……。
とまぁ、色々悩みながらもぼちぼちやっていくので、よろしくお願いします!
はじめに
お世話になってます、「ちゅん」です。環境の変化により、「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してもいいかな」というマインドになったことから始まったこの『自世界拡張プロジェクト』、第2回です。詳しい脈絡は、前回の『第1回』と『ASDと映画』にあるので是非。今回も、頑張って自世界を広げていきますよ〜
アウトプットたち
ⓐ「キキ」からの紹介 映画『マイ・インターン』
https://amzn.to/479m2YC
職員「キキ」さんから、ロバート・デ・ニーロ(ベン・ウィテカー役)とアン・ハサウェイ(ジュールズ・オースティン役)が主演のビジネス映画を紹介してもらいました。ジュールズが興したアパレルベンチャー企業に、シルバーインターンとして入社した70歳のベンが、周囲との関わりを大事にしながら、多面的に働いていくストーリーです。
全体的に楽しく観れたと思います。ビジネス映画なのでド派手な演出こそあまりないですが、会話と展開のテンポが良くキャッチーにデザインされているので、幅広い層に刺さるかと思います。それでも、やや説明的すぎるというかご都合主義すぎる部分もありましたが、映画ってもうこういうことなのかもしれないですね。気にしすぎかな。
まず、個人的に興味深かったのは、主人公であるベンがしっかりエリートでスマートな人間であるということです。勝手なこと言って申し訳ないですが、日本の作品って、何でもない主人公がただがむしゃらに頑張っていくみたいなパターンが多い気がするので、この作品の主人公像には少し新鮮さを覚えたのです。そしてそう考えていくと、ちょうどストーリーの真ん中あたりで主人公がベンからジュールズにスイッチしていると言えるのかもしれません。良くも悪くも、より人間的な方に感情移入してしまうというか。まぁ、そもそも移入ベースで物語を観ない人もたくさんいるとは思うんですけどね。
次に、アン・ハサウェイに関して大変素晴らしい俳優だなと感じました。サンフランシスコのCEO候補者と会う前日のホテルでは、夫であるマットの浮気のことも含めた長台詞のシーンがあるのですが、前述のジュールズ自身の強い部分と脆い部分を行ったり来たりするような感情の起伏を、見事に彼女は表現していました。僕は外国の俳優さんを全然知らないので、アン・ハサウェイに対して何の先入観もなかったわけですが、本当にジュールズ・オースティンという人間がそのまま生きているようにさえ感じました。当然のようですが、凄いことです。僕は、僕以外の誰かになれそうにありませんので……。
あと、結局、外部CEOを雇うことはやや否定的に描かれる形に落ち着きましたが、マットの訴えはそれなりに当然な気もしました。浮気はいけませんけどね。「こうなったら愛や正気を保つのは難しいよね」という環境やシステムへの眼差しはいつも持っていたいものです。まあそれも、トップをそのまま挿げ替えるという荒療治に頼らずに、これからはもっと自治的にやっていきますよってことだと思いますが。
ということで、まとめます。全体を通じて「こいつら公私混同がすごいな」と言うツッコミも多く出てきましたが、人と関わりながら生きる/はたらくということは、ある程度はこういうことなのかもなと受け取りました。ここまで極端ではないにしろ……。そして、観終わったあとに内容を色々と振り返っていると、ベンとジュールズが残業中にピザを一緒に食べるシーンが何故か思い起こされ、胸がきゅっとなりました。これ以上はあまり言語化したくないのですが、要はそのシーンに、凝縮された生活/ストーリーを感じたのでしょう。映画を観れば観るほど、こういう思い出のピースが貰えるとするなら、それは素敵なことかもしれませんね。
そうそうラストシーン、意外で豊かな終わり方でした。気になったら、是非観てみてくださいね。
ⓑ「ちくわ」との共同プロジェクト 料理『ホットケーキ作り』
このアウトプットに関しては他のものと少し性質が違う特別枠です。今のところ、職員さんたちにおすすめのエンタメ作品を教えてもらう形式で自拡をスタートしていますが、段々それもエンタメ作品に留まらない形になるでしょうし、もっと自由かつ柔軟に自拡のインプットを得ることも重要そうだなと考えた結果、職員「ちくわ」さんと一緒に、型に囚われない自拡をちょびちょび行っていくことになりました。
ということで、初回は『ホットケーキ作り』。元々、料理や自炊自体はややする方なんですが、お菓子作りに関しては自世界の外にあったという感じです。初回ということもあり、そんなにしっちゃかめっちゃかな結果にはならなさそうなインプットを設定したつもりですが、一体どんなホットケーキが完成するのでしょうか……!
まず、参照したのは森永製菓のWebページに載っているホットケーキレシピでした。見たところ、材料や手順もシンプルで、難易度も⭐1つと初心者の僕にはピッタリ。そもそもお菓子作りに限らず、緻密にレシピ通り料理をするということもあんまり行わないので、その点に於いても自拡です。
結果から言ってしまうと、ごくごく順調に、優しい甘さのホットケーキが完成しました!

焼き目のバランスや成形面に於いてはなかなか完璧にはいかず、半分に切っていることも手伝ってピカタみたいな見た目になっていますが、味は美味しいホットケーキでしたよ。バタバタしながら写真を撮ったので、ピロっとはみ出てる部分もありますが、愛嬌というやつです。
ナチュラルな甘さと風味で、「ちくわ」さん含め他の職員さんも美味しく食べてくれたようです。もっとジャンキーに食べるとしたら、バターやメープルシロップですね。多分、そういうのをトッピングすることを見越しての控えめな甘さなのでしょう。 生地の時点ではかなり少ない印象で、これが膨らむのかどうか不安でしたが、無事に写真の分量×3枚できました。材料も少なく安めなので、今後よい生活の助けになるかもしれません。
最後に少し。詳しく言うとすんばらしく長くなってしまうので端的に表現しますが、こういう自閉的な特性を持っていると、新しいものを登録する苦痛と開拓するメリットが強くせめぎ合う場面が非常に多いんです。「これ、開拓できたら今後の生活が楽になるだろうなぁ」と分かっていても、登録するコストが高すぎてどんどん先送りになっていくみたいな。ですから、こういう機会はありがたいです。また、「ちくわ」さんとあと数回ほど細々と行なっていこうと思います〜
ⓒ「3時のカフェイン」からの紹介 テレビ中継『第107回全国高等学校野球選手権大会 2回戦 尽誠学園(香川) 対 東大阪大柏原(大阪)』
職員「3時のカフェイン」さんから、いわゆる甲子園中継をオススメしていただきました。日本を代表する夏の風物詩としては最早言うまでもありませんが、本格的にしっかり観るのは初めてのことです。また、『ASDとサッカー』でも少し触れた通り、個人的に野球(というかスポーツ)に対してはやや厄介な一家言があり、その辺りを改めて自分はどう感じるんだろうと思いながら、中継に収まっていた部分のフルタイムを実際に観戦してみました。
様々なことを感じ考えたとも言えるし、案外スムーズにナチュラルに楽しく観た気もするしで複雑なのですが、とりあえずアウトプットしてみようと思います。
まず、野球というスポーツに対しての個人的な所感が、試合が進むにつれて何となく固まっていきました。全てのスポーツの中でも、僕は野球に対してはまだやや面白く感じることができそうなのですが、如何せん根幹のルールみたいなものにはそんなに馴染まないところがあります。しかし、それはただ単純にそういうデザインがなされたスポーツであるだけで、このこと自体に引っかかっているわけではありません。僕にとって気になるのは、これだけ渋面白系(=ひと目ではルールが伝わりにくい)のスポーツなのに、なぜこんなにも日本では圧倒的な第一スポーツとして崇拝されているのだろうということです。歴史なんかを紐解けば、おそらく日本と野球は様々な脈絡を含んだ蜜月の関係にあり、それ自体が風土というものの面白さなんでしょうけど、僕はやっぱり、よく分からないままに人間や社会が何かにぐっと集中しているさまには少し不思議な気分になるのです……(これはサッカーやその他のことにしたって同様なのですが)。
それに加え、日本における野球には、スポーツ以外の部分がかなり代入されているように見受けられます。泥水的な努力至上主義、強烈な上下関係、そもそもの部活的精神など、かなり極端に言えば人間を統一することによって強化しようといった軍隊性が根強いんですよね。甲子園みたいなものはその極致のように感じてしまいます。先の報道にもあるように……。
もっと淡々とスポーツ自体の割合が高ければ、スムーズに楽しく観れそうな気もするのですが、どうしてもそういったことに対する疑念が先立ち、あまり野球というものの面白さが自分の中にインストールされにくいんだろうなと考えました。
という感じで、ネガティブ気味なアウトプットになってしまってはいるのですが、グッときたシーンもありました。
試合の途中、東大阪大柏原は主将であったキャッチャーが負傷で交代を余儀なくされ、そこからはベンチの選手が務めることになりました。素人目で恐縮ですが、そのバッテリー変更が試合に馴染むまでのやや不安定な間に3失点を許してしまい、結果的にそれが試合の勝敗を決定付けるイニングになったように見受けられました。
そして、絶対的な支柱である主将が抜けたあとも、代わりに入った選手は身振り手振りも交えた笑顔でプレーを続けており、それがとても印象に残りました。ただそれはとても複雑な笑顔のように見えて、主将の穴を何とか埋めるための強がりのような、本来なかなか出場機会が得られない場面でプレーすることが叶った喜びのような……。
その選手のみならず、本当に本当に色んなことがあって本当に本当に色んなことを考えた先でようやく辿り着いた場所なんだと思います。それでも、これだけ儚く散ってしまい、あっという間にサイレンの音にかき消されて、去っていく。そんな人間ひとりひとりのドラマを、ほとんど関係のない観衆が、手放しでおもしろ感動エンタメとして位置付けて消費していいんでしょうか。最終的には、やっぱりそういう少し歪な印象を受け取ってしまいました……。プロの試合ならいいんですけどね。
他にも色々思い考えた気はしますが、これ以上はちょっと話が大きくなりそうなのでこれくらいに……。偏った意見だとは思いますが、こういう風に感じる人もいるということをここに記録しておきます。
おわりに
というわけで、第2回でございました。前回と『ASDと映画』も合わせて、新しいもののインプットを続けていますが、結局自分という軸からは全然離れられないアウトプットに帰結しちゃってるな〜とは感じています。一時的且つ小さなことだとしてもなかなか自分を裏切れない特性というか……。それも、ごく当然で大事なことのような気もするので、そこまで悩んでるわけでもないんですが、何にせよ”自閉”って奥が深いな〜と思いながら街の風に吹かれている日々です。自拡が続いて少し疲労気味ですが、ぼちぼちでやっていこうと思います。また、興味を持ってくれたらとても嬉しいです。それでは。
はじめに
どうもです。スタッフの「ちゅん」です。この春から、様々な出来事に起因して、生活環境や自身の価値観に少し変化が訪れています。簡単に言えば、「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してもいいかな」というマインドになりつつあるのです。それに伴い、この『自世界拡張プロジェクト』なるものを立ち上げることにしました。詳しくは、僕が今まであまり触れてこなかった内容やジャンルのエンタメ作品を職員さんに紹介してもらい、それらをインプットしたのち、こうしてこくりのHPの記事などを通じてアウトプットすることを考えています。このプロジェクト自体、これからどこに辿り着くかかなり未定ですが、当面はこの形式を足掛かりに始めてみようと思っています。
また、このプロジェクトは『ASDと〇〇 #3 ASDと映画』と連動しています。そちらでも、似たような経緯や詳細を説明しつつ、”映画”というものに限定して自世界拡張を図りながら、自分のことやその他あれこれを考えたり分析したりしています。是非、合わせてよろしくお願いします。
アウトプットたち
ⓐ「おすし」からの紹介 音楽アルバム
もしも生まれ変わったならそっとこんな声になって – Various Artistsのアルバム – Apple Music
職員「おすし」さんから音楽アルバムを紹介してもらいました。大人気ロックバンド、クリープハイプの曲を他のアーティストたちがカバーしている所謂トリビュートアルバムです。
僕はクリープハイプのみならず、この辺りのロックバンドをほとんど聴いたことがありません。正しくは、避けていると言った方がいい気がします。何だろう、僕が信じているロックンロールみたいなものとは違う方向性を持っている印象があるというか。なので、とりわけ2010年代以降に勃興してきたこういうメジャーシーンの中にあるバンド群は敬遠していました。我ながら全く失礼な話ですし、本人らも『社会の窓』でそのようなことには言及していますが、やっぱり少し受け付けない部分があるのは否めませんでした。
しかし、ということは絶好の自世界拡張の機会です。オススメされないとなかなか聴かないものに触れて、自分がどう感じ、どう影響を受けるか。何とも言えないドキドキを抱えながら、いざアルバムを聴いてみました。
結論から言うと、やっぱりあんまりハマりませんでした!(笑)
まずそもそも、クリープハイプという音楽をカバーバージョンから聴いてしまった齟齬もある気がしますが、それでも何かこう、うーん。『憂、燦々』や『ABCDC』は少し琴線に触れる部分もありましたが、これはボカロ畑出身のヨルシカや個人的に尊敬している川谷絵音にそれぞれ共鳴して惹かれているだけかもしれません。
そして、仮に「これ良いな」と思ったとしても、そこから”日常的に聴く音楽になる”というのは、全く別の話なのかもなとも感じました。音楽そのものに留まらない革命的な巡り合わせも必要というか。だから、自分が今まで大事にしてきたロックンロールたちと何が違うのかと訊かれたら、それはそれで返事に困るんですよね……。色々とごちゃごちゃは言えるだろうけど、とどのつまりポジショントークだしなぁ。それでも確かに、”何か”が違っているという手応えもあったりして、曲を聴きながらぼんやりと考え込んだりもしました。
そうして、ひと通りこのアルバムを聴き終わったあと、少し気になった『ただ』だけクリープハイプ本人らのバージョンを改めて聴きました。全くの外野からの意見で恐縮ですが、やっぱり尾崎世界観の声じゃないと全然ダメだなぁと感じました。ロックって音楽性というより生き様だと思いますし、例えばこの『ただ』に出てくる”今日でやめてやるよ クソ クソ クソ”という歌詞だって、本人が歌ってなんぼというか。勿論、そんなことも加味された上でそれでもトリビュートアルバムを作る採算がクリープハイプというバンドにあることは重々承知ですけれど、うーんそういうことを言いたいんじゃなくて……。
また、この曲に限らず、内省的だったり自虐的だったりメタっぽい歌詞もクリープハイプには多く見受けられ、尾崎世界観が自分、バンド、音楽、その他色んなことを横断しながら、組んずほぐれつ活動してそうな様をかなり勝手ですが受け取りました。「すげぇな」と思いながら、それでもやっぱりハマらんなと思いながら、最終的には結局”音楽”って不思議だなという馬鹿デカい島に漂着したことによって、このアルバムとの出会いは一旦幕を閉じました。
ⓑ「するめ」からの紹介 書籍『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』
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職員「するめ」さんから紹介してもらった、お笑い芸人オードリーの若林正恭氏によるエッセイ調の書籍です。日本とは真逆の社会を求めてキューバに旅立った彼が、革命の余韻漂うカリビアンな世界と何より自分自身の心の中を旅する物語でした。
この本に関してはあまり内容について述べると言うより、僕自身とオードリー、そして若林さんへの思いをベースにアウトプットしておこうと思います。
僕は10代の間、深夜ラジオにどっぷりでした。詳しく言えば、オールナイトニッポンやJUNKなどをよく聴いていたのですが、その中でも象徴的だったのが『オードリーのオールナイトニッポン』でした。当時から人気は凄まじく、今ではもう東京ドームでイベントを行うほどのお化け番組になりました。
また、若林さんは南海キャンディーズ山里さんと『たりないふたり』というユニットを組んでいました。2010年近辺の二人が抱えていた、繊細で捻くれたキャラクターを前面に押し出していくスタイルは、やがて数年にわたってテレビ番組として放送され、ゆくゆくは『だが、情熱はある』という大ヒットドラマにまで繋がります。そういう二人のパーソナリティに熱心に共鳴していたというほどでもないのですが、まだ右も左も分からない僕という少年は、二人が繰り出す異質のお笑いに夢中だったと言えます。この10年少々で二人を取り巻く環境は大きく変化し、今ではお笑い界、テレビ界、ラジオ界を代表する当然のスターになりました。今の二人はもうここにはいないと思いながらも、時々DVDを見返して、二人があの頃の感性で身を削りながら喋っている様に少し安心したりもします(山里さんは今でもまだここにいそうな時もありますが……笑)。
そんなこんなでオードリーがスターの階段を登っていく間に、僕は僕で色々と経験を重ね大人になり、深夜ラジオ自体もほとんど聴かなくなってからは、オードリーにもあまりこだわらなくなりました。
そこから幾年経ち、それでもこうして職員するめさんを通じて、「こういう世界の広げ方あるぜ」とでも言うかのように若林さんがまた目の前に現れたことに、貴重でありがたいことだなと感じました。読むなら今しかない、な。
と、ようやく内容に触れるのですが、ごく手短に。追加されたモンゴル編/アイスランド編も含めて、月並みですが、本当に色々とよく感じ考え生きている人なんだなと再確認しました。世に思われているイメージ通りのこと、真逆のこと、大きなこと、細かいこと、理性的なこと、野性的なこと。人間の中にごく当然に広がる宇宙を垣間見たような気がします。こうやって批評すること自体、解釈を急がれたりラベルを上塗りされたりといった、若林さん(何なら僕も)がずっと悩んできたものの一部を再生産している感じがして恐縮なのですが、やっぱりそう思いました。また、社会や人間に迫る豊かな示唆も幾つか含まれており、”見えないもの”について考える、良いきっかけになる書籍だとも思います。
あと、副産物として書籍というものの性質を再確認しました。エッセイ調の文章を例えばSNSなんかで投稿してしまうと、主題に辿り着いていない部分に反射的な批判やレッテルが飛んできたりして邪魔が入ることもありますが、書籍の場合だと基本的に著者と読者の1on1なので、どっぷりと慎重に相手の言い分を受け取ることができます。ただこれは、一方的に相手の言い分を浴びせ続けられるという暴力性も秘めてるので、そういう部分が今まで僕は苦手だったとも言えそうです。何というか、奥が深いですね。
ということで、結局アウトプットが内向き且つナラティブすぎましたね。オードリーに対してこういう論調は、昨今のお笑いファンからは煙たがられそうですし、若林さん本人も「うるせぇ」と言いそうですが、まぁそれでも許してちょんまげ。少年期の大事なひとつのアイデンティティだったもんで。
ⓒ「ちくわ」からの紹介 映画『チャーリーとチョコレート工場』
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職員「ちくわ」さんからの紹介、『チャーリーとチョコレート工場』です。事あるごとに金曜ロードショーで放送されている印象の言わずと知れた大ヒットファンタジー映画ですが、それでも観たことはありませんでした。 一体、どんな内容なのでしょう。以下、ネタバレ含む感想というか幾つかのアウトプットです。
やっぱりまず感じたのは、外国特有の会話におけるユーモアとテクニカルな部分でした。日本で日常会話をしている分には、まず出会わない言葉の裏や行間の勝負たちは、結構ポジティブな刺激になりました。登場人物たちの台詞もなかなかクリティカルで、特にチャーリーの祖父母4人が時々挟んでいた言葉たちは、少し胸に残るものもありました。
次に、「この感じの映画で結構説法なんかい」という……。色々とやんちゃな子どもたちが諷刺的に工場見学から脱落していくわけですけど、ここまで分かりやすくオムニバス的な構成じゃなくてもいいのでは?と思いました。折角のファンタジーが勿体ないような。まあ、映画自体の対象がやや子ども向けだったのかもしれないですけれどね。また、あれだけひどい目に遭ったあとも子どもたちは全く改心していませんでしたが、そこまで筋金入りなら最早クールな気さえしました。
そこから終盤にかけては、ウォンカ自身の問題やトラウマにクローズアップしていくことによって、全体的なバランスというかオチに向けてのまとまりみたいなものを受け取りました。ただ、この最後の部分は原作とは結構異なっているようで、大衆映画として成立させるためにはこういう演出的着地が必要なのかもなと勘繰ってしまう部分でもありました。
そして、全体を通して丁寧且つ説明的なストーリー構成に大変興味を抱きました。主人公のチャーリーとその家庭環境、ウォンカのチョコレート工場の存在や実体の謎など、冒頭30分ほど掛けて謂わばプレゼンのように設定説明がされており、順序や論理みたいなものを好む僕にとってはとても分かりやすくスッと入ってきました。ただその分、創作における余白の趣みたいなものは少し失われているとも言えるのかも。その後も、よくよく考えれば工場をただただ紹介していくという作業的な流れを、ここまで映画として魅せている技術にも感動しました。
総じて、かなりメタ的な視点で観ることになったわけですが、科学に依存しないウォンカのファンタジーな哲学には惹かれるものがありました。そして、それとは反対に、直接的間接的問わず”家族”というリアリズム或いは常識みたいなものも強く描かれている気がして、ウォンカ自身もその狭間でずっと揺れていたのかもしれません。最終的には、チャーリーとウォンカが共同経営者になることで素敵なバランスを手に入れたと言えますが、やっぱりパーフェクトにクレイジーなウォンカもカッコよかったなとも思いました。
ってか、拾ったお金で金のチケット当てたのはええんかい。その後、一切触れられなかったけど……。
おわりに
というわけで、新たなプロジェクト、いかがでしょうか。このプロジェクト、或いは『ASDと〇〇』を通じて、本記事の冒頭で述べた”自閉にまつわるエトセトラ”(PUFFYさん、借ります)のリアリティを少しずつ詳しく補強していけたらと考えています。大きな山であることは間違いないですが、これからも細々とやっていく予定ですので、興味を持っていただけたら嬉しいです。では。
どうも。「かんりしゃ」です。
今回も、ASDの特性が出ていたといえば出ている、出ていないといえば出ていなさそうな、「ちゅん」らしい文章でしたね。
あいかわらず蛇足ですが、「かんりしゃ」の感想をアンサーとしてのせます。
映画をみると、誰かとしゃべりたくなります。
「ちゅん」も書いていますが、映画にはおおむね120分という時間的制約があるため、その制約が少ないフォーマットよりも、余白があることが多いと思われます。
その余白は、解釈や感想をうむものになりそうです。だから誰かとしゃべりたくなるのだと思います。
誰かと共有してはじめて(?)、自分の中に落とし込めるのかも?
映画評論とかが多いのは、これゆえなのかな?
「ちゅん」の文章を読んで、「ちゅん」の孤独に触れた感じもしました。「なんか寂しいんやろなー」と感じました。
なんか、ふれた映画を誰かと共有したりしたら、彼の中に映画が位置づけられそうにも思いました。
また、映画って映画館で見た方が良い派です。
わざわざ足を運び、劇場に入り、席を探して座って、スマホの電源切って、暗くなって、「みて」、明るくなって、スマホの電源いれて、会場の外に出て、ご飯のこと考える。
こんな一連の流れが「映画体験」だと思い、最も映画の魅力が体感できるのでは、と思ってます。
スマホでみると、いろんなほかの要素が入りすぎる。。。
物語の摂取は、その物語単体でなく、その体験の仕方が思い出となり、誰かとの共有が発見をうみ、物語+αのことが、自分自身に入ってくるような。この+αなく、物語だけの摂取はなんかむずそう。