どうも。「かんりしゃ」です。
「ちゅん」のASDと〇〇には、「ちゅん」の文章とともに、「かんりしゃ」のアンサー、つまり応答をして、ひとつとしていました。
ですので、この記事は、この「ちゅん」のブログのアンサーです。
「ちゅん」が書いたのが、11/12です。約2ヵ月たちました。
ずっと「かんりしゃ」の頭の中には、このアンサーをしないといけないと思いつつ、手と頭が動きませんでした。
その動かなさの要因を考えると、「ちゅん」の文章がステキで的確やったからやと思います。
自分のASD的とされる世界観をもとに、RPGのことを考えており、それをしっかりとした言葉を選んで表現している。
何か、これに対するアンサーって蛇足でしかないよな、と思い、手が動かなかったのやと思います。
この感想自体が、アンサーなので、みなさん改めて、ブログを読んでください。よい文章ですよ。
かつては、ドラクエなどは、すごく多くの方が触ったことがあるゲームだったと思います。
他のメディアもそうですが、今はどんどん細分化され、種類も多くなり、みんなが触ったことがあるゲームってのがなくなってきましたね。
ゲーム選び自体も、枠がなくオープンな世界になってきたのかもですね。
では、第2回を、首を長くして待ちましょう。
1 ASDとRPG
第1回はゲームのジャンルであるRPGをテーマにしてみます。RPGについての簡単な説明と分析をしたのち、ASDと紐づけていく構成です。
少し堅苦しい内容かもしれませんが、このプロジェクトはこの方向性で頑張ってみようと思ってます。よろしくお願いします
1.RPGとは?
まず最初に、そもそものRPG自体の説明をさくっとしてみようと思います。
広義にRPG(ロールプレイングゲーム)とは、コンピューターゲームジャンルの一つで、主人公とその仲間がパーティ(集団)を組んで、世界中の街やダンジョンを冒険し、能力や装備を強化したりしながら、待ち構える敵たちと戦い、平和を目指すと言った感じのものです。勿論、作品により内容は様々ですが、概ねこんな形式です。
お馴染みの 『ドラゴンクエストシリーズ』、『ファイナルファンタジーシリーズ』、『ポケットモンスターシリーズ』などが代表的な作品ですね。いずれも日本のみならず世界中での人気を誇り、ゲーム業界を牽引するジャンルの一つと言えます。
父親の影響により、僕は5歳くらいからドラクエを触っていたと思います。今時そうでもないかもしれませんが、どちらかと言えばゲームを触る年齢としては早かったような気もします。おまけに戦術ややりくりが多分に求められるRPGを、僕は感覚的にほぼ問題なくプレイしていました。今思えば、生まれながらの特性であるASDとRPGにはもしかすると親和性があったのかもしれません。
2.RPGらしい要素
チャプター2では、RPGのRPGらしい要素たちを何個かピックアップして紹介してみたいと思います。
ⓐ規則性
ゲームというもの自体に言えることかもしれませんが、特にRPGは規則性に満ちたデザインがなされていることが多いです。
例えば、多くのRPGが採用している敵との戦闘におけるターン制システム。乱雑に攻守が交錯するのではなく、味方が1回行動したら、敵も1回行動するという大変秩序的なバトルデザインです。
他にも整然としたゲーム画面表示にも美しい規則性が宿っていると感じます。
これはほとんど印象操作というかポジショントークなのかもしれないのですが、このスーパーマリオRPGを代表とする任天堂やスクエアエニックスのRPGは、本当に画面の中の情報認識がし易く設計されてるように感じます。(最近のアプリゲームとかオンライン系のゲームとか、一画面でとんでもない情報量なので……)。
とにかくゲームの端から端まで、規則によって秩序的に表現されているものがRPGには多いイメージです。
ⓑコツコツ性
RPGは他のゲームジャンルと比べると、コツコツやっていけばクリアできるように設計されていることが多いです。
例えば、レベルという概念。敵を倒すと経験値が入手でき、その経験値が一定溜まるとレベルアップし、仲間たちが強くなっていくというものです。作品にもよりますが、このレベルは最大99ほどに到達するまではゲームの進行度合いに関わらずどんどん上げることができ、時間こそかかってもコツコツたくさんレベルを上げていれば、強敵であっても楽に倒せることもしばしばです。
その分、突発的なプレイングスキルや運によって道が開けることは少ないとも言えますが、ある意味平等的なデザインだと思います。
ⓒ 適度な自由性
かなり重要な要素だと思います。RPGにおける適度な自由性を語る前に、ゲームそのものの自由性、もっと言えばその手前の主体性みたいなものについて書いておこうと思います。
1985年にファミコン用ソフトとして発売された『スーパーマリオブラザーズ』。その一番最初のコース、1-1のスタート画面を思い出してみてください。
マリオは画面全体のやや左に立っており、顔は右を向いています。その先には広大なスペースがあり、手元にはいかにも右に進めそうなコントローラーの十字キー。これにより、多くの人間が、「右に進んでいくのだろう」と感じることができ、「早く右に操作したい!」というプレイヤー自身の主体性を促すことができるデザインになっていると聞いたことがあります(2019、玉樹)。
ゲームのみならず、本当に素晴らしいデザイン、考え方だと思います。
そして、この主体性を維持させるために、自由性という要素が大きく関わってくると思います。
まず、RPGを分析する上でよく登場するものとして、”おつかい”という概念を紹介します。例えば、村に居る人々に話しかけると、「村長が悪い呪いにかかってしまって、それを治すには村の北にある洞窟の奥に咲く花の蜜が必要なんだけれど、あの洞窟には魔物がいっぱい棲んでいて近づけないんだ…… ああ誰か腕の立つ者はいないだろうか……」のような、いかにもプレイヤーにそれを実行して欲しいかのような仄めかしを口にしたりするのです。
これにより、やるべきことがプレイヤーの中でもはっきりする反面、仄めかしが強すぎたり多用しすぎたりすると「なんかおつかいしてばっかりだな」という印象も持たれかねません。
そう考えると、それとない示唆やシステムデザインによって、プレイヤーに選択肢や深層的動機をちょうどよく与えつつ、随所でプレイヤーそれぞれが持つ個性のグラデーションを受け入れられる余裕を持つみたいなことが、適度な自由性に繋がるのではないかと感じます。
そういうバランスが、RPGはすごく丁度いいというか丁寧というか、そもそもそういう概念自体を生み出したのもRPGだったりしそうですが、とにかく心地よくプレイできる場合が多い気がするのです。
3.ASDと RPG
最後に、チャプター2の要素たちをASDと紐付けて研究してみようと思います。
ⓐ’ I LOVE 秩序&フレーム
僕は、物事や要素が規則的に並んでいたり、並列的で平等に扱われていたりすることにとても落ち着きます。反対に、物事や要素が乱立し無秩序だと、途端にそれらを認識することが難しくなり、まずはそれらを体系的に整えることから着手する傾向にあります。
これはすごくニュアンスの表現なんですが、情報と情報とが直角に交わっていることが理想的だったりします。情報と情報とが直角に交わることが連なれば、やがてそれは美しいフレームを形成することになり、とても認識しやすくなります。
例えるなら、ショーケースの中に美しく並んだミニカーのようです。ミニカーという基本的に同じ形のものが、同じ向きで綺麗に陳列され、縦と横が直角に交わるガラスの仕切りによって整理され、最後に蓋をされることによって体系的な情報群として大きな意味性、成立感を持つ……という感じです。
このようにRPGは、情報群がショーケースの中で体系的に陳列されているように感じます。だから、僕が認識しやすいんだと思います。
正直、何を言ってるか全然分からないと思うのですが、僕が生きている感覚を精一杯表現するとこうなります。
というか、こういう文体と構成で文章を書くということ自体が、陳列的な世界で暮らしているという事実に他ならない気がしています。
ⓑ’ マメで真面目な人が報われる
色々関わってくれている周りの人からすると、僕は結構マメで真面目みたいです。ただ、自分の実体験も含めた偏見を繰り出すと、そういう人って逆に損をしてしまったり、周りに付いていけなくなったりすることもよくある気がします。これも結局、マジョリティとマイノリティの話に発展していくのですが、今回はとりあえず置いといて、真面目な人って割を食うことも往々にしてあるよねぐらいの仮説でこの後の文章を展開させてください。
こういうゲームがありまして、最近ずっとプレイしていました。少しアクション要素があるゲームデザインですが、概ねRPGだと思います。細かい世界観のことは今回省きますが、何を言いたいかと言うと「マメな人が報われるゲームだったよ!」ってことなんです。
RPGにはクエストというシステムがありまして、街の人なんかから依頼を受け、それを達成するとアイテムや装備が貰えて冒険が有利になるみたいな感じのものです。そういうクエストがこのゲームには山ほど用意されていて、「あそこであの人が困っていたな」とか「あそこのあれって解決したんだっけ?」みたいな僕のマメさや記憶力が結果的に冒険を大いに助けてくれたのです。
丁寧すぎる生き方をすると、周りから置いていかれることもしばしばかもしれませんが、RPGの世界の中では飽くまで自分のペースを貫くことができ、且つRPG自体もそれを評価してくれたりします。素敵!
ⓒ’ 自己表現のカタチを探して
”適度な自由性”の前フリがどう自己表現に繋がるのか疑問かもしれませんが、何とか繋げてみたいと思います。
昨今、チャプター2で紹介したこの”適度な自由性”を、脅かす存在が生まれました。”オープンワールドシステム”というものです。
”オープンワールドシステム”とは、冒険を始めた最初の段階からワールドマップが際限なく広がり、ストーリーを進める順番ですらプレイヤーに委ねられるような形式のゲームシステムです。
ポケモンシリーズの最新作。従来の2Dの世界から大きく解き放たれ、立体的で広大なマップを自由に探索するゲームデザインに進化しましたが、その側面には余りにも果てしない冒険を強いられる苦しさも宿っていました……。
勿論、こういうプレイヤーの好奇心や主体性を大きくくすぐるアプローチも楽しいものだと思いますが、近年開発されるほぼ全てのRPGがこういう形式を採用していく潮流には些か疑問が残ります。
これは僕の偏った考えかもしれませんが、ゲームとは非社会的なものでないといけないと思うのです。オープンワールドシステムを採用してしまうと、ありとあらゆる物事たちに優先順位を付けなければいけなかったり、諦める箇所を作らないといけなかったり、自分で自分のお尻を叩かないといけなかったりと、すごく社会的な能力が求められてしまいます。その結果、「何かゲームの中でも働いてない?」みたいな感覚に襲われることもしばしばです。 “自由とは不自由だ”とはよく言ったもので、「今からずーっと何してもいいよ」と言われると案外困ったりする人も居るんじゃないでしょうか。
僕のゲーム人生の原点であり頂点の作品です。広がる自然に対する好奇心がちょうど枯れないくらいのマップの広さに加え、様々な要素のデザインが丁寧で綺麗にフレームに収まっている感じがします。
こう考えていくと、僕にとってRPGは自己表現、存在確認の大きなひとつであるように感じます。社会の中で暮らしていると、どうしてもマジョリティという物差しに基準を合わせられ、その接点には障害という概念が生まれてしまいますが、RPGという世界の中では、野放しにされるわけでもお節介を焼かれすぎるわけでもない絶妙なバランスで、僕の在り方をサポートしてくれている気がするのです。
人間自体にも言えることですが、特にASDは自分の内側にあるものをどうやって表現、確認するかといったところに生涯翻弄されるもののような気がします。
他人からは思いもしない場所で、その人は自己の何かを表現し、何かを確認しているのかもしれません。
以上、多分に個人性や偏った論旨展開を含むコラムでしたが、僕の中ではある程度腑に落ちてたりします。
第1回はここまで。読んでいただきありがとうございました。
【参考文献】
・『「ついやってしまう」体験のつくりかた』 玉樹真一郎 2019 ダイヤモンド社
友だちブログ 「てって」の場合
私の思う友達関係とは
一緒に居てホッと安心出来たり
笑いのツボが同じだったり
その人が嬉しいと私も嬉しくなったり
信頼出来たり
考え方がポジティブだったり
時にはそっとしていてくれたり
無理せず自然体でいられる関係です
友だちブログ 「するめ」の場合
振り返ると昔は今ほど友達のことを必要としていなかったように思います。いて当たり前とでも思っていたのかもしれません。けれど大人になり、頻繁に会うことも減り、当たり前にいるものでも、出来るものでもないのだと思うようになりました。だからこそなのか、今では私が生きる上では結構必要な存在だと思うようになっています。いなくてももちろん生きていけるけど、いるのといないのとでは私の見える世界は結構変わってくるのかもしれません。自分にない考え方や世界を見せてくれたり、価値観を広げてくれると感じることが多いからです。それになによりも、友達は自分が自分らしくいれる相手で、私らしさを肯定してくれる人だから必要なのかもしれないです。自分ひとりだけでは心もとないときも、自分を知ってくれて、少しだけでも分かってくれている人がいることって結構安心するなと思います。楽しいだけの関係ではないけれど、持ちつ持たれつで、これからも一緒の時代を生きていきたい人たちです。
「ゼロカロリーのピーちゃん」のひまわり物語 2024 ⑥
「ゼロカロリーのピーちゃん」です。
お久しぶりです。只今、ひまわりの種の選別中!
この種勝手に選別してくれないかとふと思う今日この頃。
がんばります
友だちブログ 「ちゅん」の場合
冬の列車が往き交う様は
冷たくドライで記号的
窓の隙間に零れる風で
掴む摩るは耳のたぶ
忙しく働く車両の扉
そこに飛び入る人の群れ
閉じて話して開いて聞いて
愛と自由を費やして
人と人とが繋がる先で
待ってる地獄のしがらみと
人と人とが繋がる先で
待ってる天国めいた愛
疑う私はどこにいるのか
内的世界の住人か
疑う私はどこにいるのか
外的世界じゃあてどなし
幾重に続く暮らしはまるで
虚しく広がる空のよう
幾重に続く暮らしはまるで
深く苦しい海のよう
すると俄かに隣のあなた
次の暮らしへ乗り換える
扉が開いて生まれた虚空
吸い込まれるはその背中
気づいた私と対照的に
明るく見せたその笑顔
それを両目で縁取るように
遅れた写真を撮るように
隣のあなたはどこへゆくのか
友と名付けるその前に
隣のあなたはどこへゆくのか
友と名付けた後だって
苦海まるごと 季節の轍
さらさら落ちるは時の砂
席の温度と解ける思い
“サヨナラ”如きにゃ荷が重い
春の列車が往き交う様は
相も変わらず記号的
風が車体を撫でさえすれば
私までもが乗り換える
友だちブログ 「ちくわ」の場合
友だちの嫌なところ
人によって言うことを変えるところ。
私になら何でもしてもいいと思ってるところ。
勘違いをしているだけなのに、周りを巻き込んで問題を大きくするところ。
甘やかされて育っているところ。
嫌なことがあれば返信してこないところ。
かまちょすぎるところ。
トラブルメーカーなところ。
嫌なことがあればすぐに過呼吸や熱が出るところ。
泣きながら電話をかけてくるところ。
その場の感情で、見える場所に傷を自分でつけるところ。
相談してきてアドバイスちょうだいって言ってくるくせにアドバイスしたら、でも/だってって言うところ。
などなど、もっといっぱいある。
でも、どんなに嫌で離れたくて仕方がなくても、最終的には全部許してしまうし、一緒にいると安心する。いつもと何か違うと思うと心配になるし、この友だちが持つ、言葉にならないなにかに惹かれてるんだと思ってます。
友だちって嫌いやけど好き、好きやけど嫌いで成り立ってるこういうもんなんだと思います。
友だちブログ 「かんりしゃ」の場合
友だちというテーマで考えると、ある一人の人が思い浮かぶ。ふと思い浮かぶこの人は「かんりしゃ」にとって友だちなのだろう。
親子は血縁関係、恋人は大概告白みたいな口約束がある。職場の仲間も雇用契約などをもとにした関係である。
けど、友だちにはそれらの決まりごとや約束ごとがないなーと思った。友だちになろうと言ってなることは、少なくとも「かんりしゃ」にはなく、何となく近しいところにいて、それが、結果的に友だちかなって思ってるくらい。
そう考えると、友だちって、すごくあいまいで不安定で貴重やな、と思う。
先にあげたあの人は、たぶんむこうも「かんりしゃ」のことを友だちと思っていそう。それがあるからこちらも安心して「友だち」とすんなり言えるのだと思う。約束はしてないけど友だち。
別に大切な話もしないし、してもいい。けど基本どうでもいいことの情報交換だけしてる。密に連絡をとってもいいし、とらなくてもいい。たぶんお互いに歳をとったら、一緒に何かする(つりチーム結成みたいな!)やろな、と思っている。けどそれをしなくてもよいとも思ってる。
大切でもない、どうでもいい時間を長く過ごしたから、どうでもよくて、けどどうでもよいと思えること自体がすごく大切でありがたい感じ。友だちやなー。
友だちブログ 「398」の場合
私にそれほど友達はいない。
いない、と書いているものの、片手で数えられるくらいには友達はいる。
元々はもっといたような記憶はあるが、数十年生きていると疎遠になる。
なので、昔は友達だったけど今は友達じゃなさそう…みたいな人がたくさんいる。
友達みたいな人は8割7割、自分と趣味や嗜好が合っている人のことを指すと思う。
では、友達みたいな人とは違う友達とはどういう人なのか。パっと思いつく人がいるのでその人について考えてみる。前述した人たちとは異なり、その人と私の趣味や嗜好はあまり合っていない。不思議な話であるが、一致する割合としては半分もないのではないかと思う。50%一致しているかどうか、というくらいである。ただ、私にとってたしかにその人は友達だと言える。趣味や嗜好があまり合っていないこと以外に何か違うことは何だろうと考えてみる。思い当たるのは、私がその人に対してスゴイ!と思っていること。この人は本当にスゴイ人だなぁというきもちを抱いている。リスペクトである。私にとって友達とは、その人をスゴイと思えるか。リスペクトできる人物かどうかが重要になっているようである。
友だちブログ 「おすし」の場合
私にとって「友達」とは、人生により彩りを与えてくれるものだと感じています。言語化が非常に難しいのですが、必要不可欠だけど必要不可欠でもない気もする、というような感じです。
例えるなら、自分自身がサラダだとしたら友達はドレッシングです。ドレッシングには様々な種類があり、様々な味のサラダになることができます。また、私は何もかけずにサラダを食べることも好きです。好きな時に好きな味で食べたいので、いろんな種類のドレッシングを常備しておきたい気持ちがあります。
つまり、私ひとりで過ごす時間も好きだし、私の人生のメインは私です。しかし刺激を与えてくれたり、視野を広げてくれたり、より人生をおいしくしてくれるのは友達の存在があるからだと感じています。ドレッシングに頼りすぎなくてもサラダだけでもおいしいと感じる、でも味気ない時もある、なので必要不可欠だけど必要不可欠でもないと最初に述べました。ちなみに私自身が楽に生きる工夫として、ドレッシングとは程よい距離感で付き合うことを意識しています。サラダだけでも十分おいしいと感じれるように。
私の友人にとっても私がドレッシングのような存在でありたいと思っています。