#2「ちゅん」の『自世界拡張プロジェクト』

はじめに

お世話になってます、「ちゅん」です。環境の変化により、「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してもいいかな」というマインドになったことから始まったこの『自世界拡張プロジェクト』、第2回です。詳しい脈絡は、前回の『第1回』と『ASDと映画』にあるので是非。今回も、頑張って自世界を広げていきますよ〜

アウトプットたち


ⓐ「キキ」からの紹介 映画『マイ・インターン』
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 職員「キキ」さんから、ロバート・デ・ニーロ(ベン・ウィテカー役)とアン・ハサウェイ(ジュールズ・オースティン役)が主演のビジネス映画を紹介してもらいました。ジュールズが興したアパレルベンチャー企業に、シルバーインターンとして入社した70歳のベンが、周囲との関わりを大事にしながら、多面的に働いていくストーリーです。

 全体的に楽しく観れたと思います。ビジネス映画なのでド派手な演出こそあまりないですが、会話と展開のテンポが良くキャッチーにデザインされているので、幅広い層に刺さるかと思います。それでも、やや説明的すぎるというかご都合主義すぎる部分もありましたが、映画ってもうこういうことなのかもしれないですね。気にしすぎかな。

 まず、個人的に興味深かったのは、主人公であるベンがしっかりエリートでスマートな人間であるということです。勝手なこと言って申し訳ないですが、日本の作品って、何でもない主人公がただがむしゃらに頑張っていくみたいなパターンが多い気がするので、この作品の主人公像には少し新鮮さを覚えたのです。そしてそう考えていくと、ちょうどストーリーの真ん中あたりで主人公がベンからジュールズにスイッチしていると言えるのかもしれません。良くも悪くも、より人間的な方に感情移入してしまうというか。まぁ、そもそも移入ベースで物語を観ない人もたくさんいるとは思うんですけどね。

 次に、アン・ハサウェイに関して大変素晴らしい俳優だなと感じました。サンフランシスコのCEO候補者と会う前日のホテルでは、夫であるマットの浮気のことも含めた長台詞のシーンがあるのですが、前述のジュールズ自身の強い部分と脆い部分を行ったり来たりするような感情の起伏を、見事に彼女は表現していました。僕は外国の俳優さんを全然知らないので、アン・ハサウェイに対して何の先入観もなかったわけですが、本当にジュールズ・オースティンという人間がそのまま生きているようにさえ感じました。当然のようですが、凄いことです。僕は、僕以外の誰かになれそうにありませんので……。

 あと、結局、外部CEOを雇うことはやや否定的に描かれる形に落ち着きましたが、マットの訴えはそれなりに当然な気もしました。浮気はいけませんけどね。「こうなったら愛や正気を保つのは難しいよね」という環境やシステムへの眼差しはいつも持っていたいものです。まあそれも、トップをそのまま挿げ替えるという荒療治に頼らずに、これからはもっと自治的にやっていきますよってことだと思いますが。

 ということで、まとめます。全体を通じて「こいつら公私混同がすごいな」と言うツッコミも多く出てきましたが、人と関わりながら生きる/はたらくということは、ある程度はこういうことなのかもなと受け取りました。ここまで極端ではないにしろ……。そして、観終わったあとに内容を色々と振り返っていると、ベンとジュールズが残業中にピザを一緒に食べるシーンが何故か思い起こされ、胸がきゅっとなりました。これ以上はあまり言語化したくないのですが、要はそのシーンに、凝縮された生活/ストーリーを感じたのでしょう。映画を観れば観るほど、こういう思い出のピースが貰えるとするなら、それは素敵なことかもしれませんね。

 そうそうラストシーン、意外で豊かな終わり方でした。気になったら、是非観てみてくださいね。


ⓑ「ちくわ」との共同プロジェクト 料理『ホットケーキ作り』

 このアウトプットに関しては他のものと少し性質が違う特別枠です。今のところ、職員さんたちにおすすめのエンタメ作品を教えてもらう形式で自拡をスタートしていますが、段々それもエンタメ作品に留まらない形になるでしょうし、もっと自由かつ柔軟に自拡のインプットを得ることも重要そうだなと考えた結果、職員「ちくわ」さんと一緒に、型に囚われない自拡をちょびちょび行っていくことになりました。
 ということで、初回は『ホットケーキ作り』。元々、料理や自炊自体はややする方なんですが、お菓子作りに関しては自世界の外にあったという感じです。初回ということもあり、そんなにしっちゃかめっちゃかな結果にはならなさそうなインプットを設定したつもりですが、一体どんなホットケーキが完成するのでしょうか……!

 まず、参照したのは森永製菓のWebページに載っているホットケーキレシピでした。見たところ、材料や手順もシンプルで、難易度も⭐1つと初心者の僕にはピッタリ。そもそもお菓子作りに限らず、緻密にレシピ通り料理をするということもあんまり行わないので、その点に於いても自拡です。

 結果から言ってしまうと、ごくごく順調に、優しい甘さのホットケーキが完成しました!



 焼き目のバランスや成形面に於いてはなかなか完璧にはいかず、半分に切っていることも手伝ってピカタみたいな見た目になっていますが、味は美味しいホットケーキでしたよ。バタバタしながら写真を撮ったので、ピロっとはみ出てる部分もありますが、愛嬌というやつです。

 ナチュラルな甘さと風味で、「ちくわ」さん含め他の職員さんも美味しく食べてくれたようです。もっとジャンキーに食べるとしたら、バターやメープルシロップですね。多分、そういうのをトッピングすることを見越しての控えめな甘さなのでしょう。 生地の時点ではかなり少ない印象で、これが膨らむのかどうか不安でしたが、無事に写真の分量×3枚できました。材料も少なく安めなので、今後よい生活の助けになるかもしれません。

 最後に少し。詳しく言うとすんばらしく長くなってしまうので端的に表現しますが、こういう自閉的な特性を持っていると、新しいものを登録する苦痛と開拓するメリットが強くせめぎ合う場面が非常に多いんです。「これ、開拓できたら今後の生活が楽になるだろうなぁ」と分かっていても、登録するコストが高すぎてどんどん先送りになっていくみたいな。ですから、こういう機会はありがたいです。また、「ちくわ」さんとあと数回ほど細々と行なっていこうと思います〜


ⓒ「3時のカフェイン」からの紹介 テレビ中継『第107回全国高等学校野球選手権大会 2回戦 尽誠学園(香川) 対 東大阪大柏原(大阪)』

 職員「3時のカフェイン」さんから、いわゆる甲子園中継をオススメしていただきました。日本を代表する夏の風物詩としては最早言うまでもありませんが、本格的にしっかり観るのは初めてのことです。また、『ASDとサッカー』でも少し触れた通り、個人的に野球(というかスポーツ)に対してはやや厄介な一家言があり、その辺りを改めて自分はどう感じるんだろうと思いながら、中継に収まっていた部分のフルタイムを実際に観戦してみました。

 様々なことを感じ考えたとも言えるし、案外スムーズにナチュラルに楽しく観た気もするしで複雑なのですが、とりあえずアウトプットしてみようと思います。

 まず、野球というスポーツに対しての個人的な所感が、試合が進むにつれて何となく固まっていきました。全てのスポーツの中でも、僕は野球に対してはまだやや面白く感じることができそうなのですが、如何せん根幹のルールみたいなものにはそんなに馴染まないところがあります。しかし、それはただ単純にそういうデザインがなされたスポーツであるだけで、このこと自体に引っかかっているわけではありません。僕にとって気になるのは、これだけ渋面白系(=ひと目ではルールが伝わりにくい)のスポーツなのに、なぜこんなにも日本では圧倒的な第一スポーツとして崇拝されているのだろうということです。歴史なんかを紐解けば、おそらく日本と野球は様々な脈絡を含んだ蜜月の関係にあり、それ自体が風土というものの面白さなんでしょうけど、僕はやっぱり、よく分からないままに人間や社会が何かにぐっと集中しているさまには少し不思議な気分になるのです……(これはサッカーやその他のことにしたって同様なのですが)。

 それに加え、日本における野球には、スポーツ以外の部分がかなり代入されているように見受けられます。泥水的な努力至上主義、強烈な上下関係、そもそもの部活的精神など、かなり極端に言えば人間を統一することによって強化しようといった軍隊性が根強いんですよね。甲子園みたいなものはその極致のように感じてしまいます。先の報道にもあるように……。

 もっと淡々とスポーツ自体の割合が高ければ、スムーズに楽しく観れそうな気もするのですが、どうしてもそういったことに対する疑念が先立ち、あまり野球というものの面白さが自分の中にインストールされにくいんだろうなと考えました。

 という感じで、ネガティブ気味なアウトプットになってしまってはいるのですが、グッときたシーンもありました。
 試合の途中、東大阪大柏原は主将であったキャッチャーが負傷で交代を余儀なくされ、そこからはベンチの選手が務めることになりました。素人目で恐縮ですが、そのバッテリー変更が試合に馴染むまでのやや不安定な間に3失点を許してしまい、結果的にそれが試合の勝敗を決定付けるイニングになったように見受けられました。
 そして、絶対的な支柱である主将が抜けたあとも、代わりに入った選手は身振り手振りも交えた笑顔でプレーを続けており、それがとても印象に残りました。ただそれはとても複雑な笑顔のように見えて、主将の穴を何とか埋めるための強がりのような、本来なかなか出場機会が得られない場面でプレーすることが叶った喜びのような……。

 その選手のみならず、本当に本当に色んなことがあって本当に本当に色んなことを考えた先でようやく辿り着いた場所なんだと思います。それでも、これだけ儚く散ってしまい、あっという間にサイレンの音にかき消されて、去っていく。そんな人間ひとりひとりのドラマを、ほとんど関係のない観衆が、手放しでおもしろ感動エンタメとして位置付けて消費していいんでしょうか。最終的には、やっぱりそういう少し歪な印象を受け取ってしまいました……。プロの試合ならいいんですけどね。

 他にも色々思い考えた気はしますが、これ以上はちょっと話が大きくなりそうなのでこれくらいに……。偏った意見だとは思いますが、こういう風に感じる人もいるということをここに記録しておきます。

おわりに

 というわけで、第2回でございました。前回と『ASDと映画』も合わせて、新しいもののインプットを続けていますが、結局自分という軸からは全然離れられないアウトプットに帰結しちゃってるな〜とは感じています。一時的且つ小さなことだとしてもなかなか自分を裏切れない特性というか……。それも、ごく当然で大事なことのような気もするので、そこまで悩んでるわけでもないんですが、何にせよ”自閉”って奥が深いな〜と思いながら街の風に吹かれている日々です。自拡が続いて少し疲労気味ですが、ぼちぼちでやっていこうと思います。また、興味を持ってくれたらとても嬉しいです。それでは。

#1「ちゅん」の『自世界拡張プロジェクト』

はじめに

 どうもです。スタッフの「ちゅん」です。この春から、様々な出来事に起因して、生活環境や自身の価値観に少し変化が訪れています。簡単に言えば、「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してもいいかな」というマインドになりつつあるのです。それに伴い、この『自世界拡張プロジェクト』なるものを立ち上げることにしました。詳しくは、僕が今まであまり触れてこなかった内容やジャンルのエンタメ作品を職員さんに紹介してもらい、それらをインプットしたのち、こうしてこくりのHPの記事などを通じてアウトプットすることを考えています。このプロジェクト自体、これからどこに辿り着くかかなり未定ですが、当面はこの形式を足掛かりに始めてみようと思っています。

 また、このプロジェクトは『ASDと〇〇 #3 ASDと映画』と連動しています。そちらでも、似たような経緯や詳細を説明しつつ、”映画”というものに限定して自世界拡張を図りながら、自分のことやその他あれこれを考えたり分析したりしています。是非、合わせてよろしくお願いします。


アウトプットたち

ⓐ「おすし」からの紹介 音楽アルバム
もしも生まれ変わったならそっとこんな声になって – Various Artistsのアルバム – Apple Music

 職員「おすし」さんから音楽アルバムを紹介してもらいました。大人気ロックバンド、クリープハイプの曲を他のアーティストたちがカバーしている所謂トリビュートアルバムです。

 僕はクリープハイプのみならず、この辺りのロックバンドをほとんど聴いたことがありません。正しくは、避けていると言った方がいい気がします。何だろう、僕が信じているロックンロールみたいなものとは違う方向性を持っている印象があるというか。なので、とりわけ2010年代以降に勃興してきたこういうメジャーシーンの中にあるバンド群は敬遠していました。我ながら全く失礼な話ですし、本人らも『社会の窓』でそのようなことには言及していますが、やっぱり少し受け付けない部分があるのは否めませんでした。

 しかし、ということは絶好の自世界拡張の機会です。オススメされないとなかなか聴かないものに触れて、自分がどう感じ、どう影響を受けるか。何とも言えないドキドキを抱えながら、いざアルバムを聴いてみました。

 結論から言うと、やっぱりあんまりハマりませんでした!(笑)
 まずそもそも、クリープハイプという音楽をカバーバージョンから聴いてしまった齟齬もある気がしますが、それでも何かこう、うーん。『憂、燦々』や『ABCDC』は少し琴線に触れる部分もありましたが、これはボカロ畑出身のヨルシカや個人的に尊敬している川谷絵音にそれぞれ共鳴して惹かれているだけかもしれません。

 そして、仮に「これ良いな」と思ったとしても、そこから”日常的に聴く音楽になる”というのは、全く別の話なのかもなとも感じました。音楽そのものに留まらない革命的な巡り合わせも必要というか。だから、自分が今まで大事にしてきたロックンロールたちと何が違うのかと訊かれたら、それはそれで返事に困るんですよね……。色々とごちゃごちゃは言えるだろうけど、とどのつまりポジショントークだしなぁ。それでも確かに、”何か”が違っているという手応えもあったりして、曲を聴きながらぼんやりと考え込んだりもしました。

 そうして、ひと通りこのアルバムを聴き終わったあと、少し気になった『ただ』だけクリープハイプ本人らのバージョンを改めて聴きました。全くの外野からの意見で恐縮ですが、やっぱり尾崎世界観の声じゃないと全然ダメだなぁと感じました。ロックって音楽性というより生き様だと思いますし、例えばこの『ただ』に出てくる”今日でやめてやるよ クソ クソ クソ”という歌詞だって、本人が歌ってなんぼというか。勿論、そんなことも加味された上でそれでもトリビュートアルバムを作る採算がクリープハイプというバンドにあることは重々承知ですけれど、うーんそういうことを言いたいんじゃなくて……。

 また、この曲に限らず、内省的だったり自虐的だったりメタっぽい歌詞もクリープハイプには多く見受けられ、尾崎世界観が自分、バンド、音楽、その他色んなことを横断しながら、組んずほぐれつ活動してそうな様をかなり勝手ですが受け取りました。「すげぇな」と思いながら、それでもやっぱりハマらんなと思いながら、最終的には結局”音楽”って不思議だなという馬鹿デカい島に漂着したことによって、このアルバムとの出会いは一旦幕を閉じました。


ⓑ「するめ」からの紹介 書籍『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』
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 職員「するめ」さんから紹介してもらった、お笑い芸人オードリーの若林正恭氏によるエッセイ調の書籍です。日本とは真逆の社会を求めてキューバに旅立った彼が、革命の余韻漂うカリビアンな世界と何より自分自身の心の中を旅する物語でした。

 この本に関してはあまり内容について述べると言うより、僕自身とオードリー、そして若林さんへの思いをベースにアウトプットしておこうと思います。

 僕は10代の間、深夜ラジオにどっぷりでした。詳しく言えば、オールナイトニッポンやJUNKなどをよく聴いていたのですが、その中でも象徴的だったのが『オードリーのオールナイトニッポン』でした。当時から人気は凄まじく、今ではもう東京ドームでイベントを行うほどのお化け番組になりました。

 また、若林さんは南海キャンディーズ山里さんと『たりないふたり』というユニットを組んでいました。2010年近辺の二人が抱えていた、繊細で捻くれたキャラクターを前面に押し出していくスタイルは、やがて数年にわたってテレビ番組として放送され、ゆくゆくは『だが、情熱はある』という大ヒットドラマにまで繋がります。そういう二人のパーソナリティに熱心に共鳴していたというほどでもないのですが、まだ右も左も分からない僕という少年は、二人が繰り出す異質のお笑いに夢中だったと言えます。この10年少々で二人を取り巻く環境は大きく変化し、今ではお笑い界、テレビ界、ラジオ界を代表する当然のスターになりました。今の二人はもうここにはいないと思いながらも、時々DVDを見返して、二人があの頃の感性で身を削りながら喋っている様に少し安心したりもします(山里さんは今でもまだここにいそうな時もありますが……笑)。

 そんなこんなでオードリーがスターの階段を登っていく間に、僕は僕で色々と経験を重ね大人になり、深夜ラジオ自体もほとんど聴かなくなってからは、オードリーにもあまりこだわらなくなりました。
 そこから幾年経ち、それでもこうして職員するめさんを通じて、「こういう世界の広げ方あるぜ」とでも言うかのように若林さんがまた目の前に現れたことに、貴重でありがたいことだなと感じました。読むなら今しかない、な。

 と、ようやく内容に触れるのですが、ごく手短に。追加されたモンゴル編/アイスランド編も含めて、月並みですが、本当に色々とよく感じ考え生きている人なんだなと再確認しました。世に思われているイメージ通りのこと、真逆のこと、大きなこと、細かいこと、理性的なこと、野性的なこと。人間の中にごく当然に広がる宇宙を垣間見たような気がします。こうやって批評すること自体、解釈を急がれたりラベルを上塗りされたりといった、若林さん(何なら僕も)がずっと悩んできたものの一部を再生産している感じがして恐縮なのですが、やっぱりそう思いました。また、社会や人間に迫る豊かな示唆も幾つか含まれており、”見えないもの”について考える、良いきっかけになる書籍だとも思います。

 あと、副産物として書籍というものの性質を再確認しました。エッセイ調の文章を例えばSNSなんかで投稿してしまうと、主題に辿り着いていない部分に反射的な批判やレッテルが飛んできたりして邪魔が入ることもありますが、書籍の場合だと基本的に著者と読者の1on1なので、どっぷりと慎重に相手の言い分を受け取ることができます。ただこれは、一方的に相手の言い分を浴びせ続けられるという暴力性も秘めてるので、そういう部分が今まで僕は苦手だったとも言えそうです。何というか、奥が深いですね。

 ということで、結局アウトプットが内向き且つナラティブすぎましたね。オードリーに対してこういう論調は、昨今のお笑いファンからは煙たがられそうですし、若林さん本人も「うるせぇ」と言いそうですが、まぁそれでも許してちょんまげ。少年期の大事なひとつのアイデンティティだったもんで。


ⓒ「ちくわ」からの紹介 映画『チャーリーとチョコレート工場』
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 職員「ちくわ」さんからの紹介、『チャーリーとチョコレート工場』です。事あるごとに金曜ロードショーで放送されている印象の言わずと知れた大ヒットファンタジー映画ですが、それでも観たことはありませんでした。 一体、どんな内容なのでしょう。以下、ネタバレ含む感想というか幾つかのアウトプットです。

 やっぱりまず感じたのは、外国特有の会話におけるユーモアとテクニカルな部分でした。日本で日常会話をしている分には、まず出会わない言葉の裏や行間の勝負たちは、結構ポジティブな刺激になりました。登場人物たちの台詞もなかなかクリティカルで、特にチャーリーの祖父母4人が時々挟んでいた言葉たちは、少し胸に残るものもありました。

 次に、「この感じの映画で結構説法なんかい」という……。色々とやんちゃな子どもたちが諷刺的に工場見学から脱落していくわけですけど、ここまで分かりやすくオムニバス的な構成じゃなくてもいいのでは?と思いました。折角のファンタジーが勿体ないような。まあ、映画自体の対象がやや子ども向けだったのかもしれないですけれどね。また、あれだけひどい目に遭ったあとも子どもたちは全く改心していませんでしたが、そこまで筋金入りなら最早クールな気さえしました。

 そこから終盤にかけては、ウォンカ自身の問題やトラウマにクローズアップしていくことによって、全体的なバランスというかオチに向けてのまとまりみたいなものを受け取りました。ただ、この最後の部分は原作とは結構異なっているようで、大衆映画として成立させるためにはこういう演出的着地が必要なのかもなと勘繰ってしまう部分でもありました。

 そして、全体を通して丁寧且つ説明的なストーリー構成に大変興味を抱きました。主人公のチャーリーとその家庭環境、ウォンカのチョコレート工場の存在や実体の謎など、冒頭30分ほど掛けて謂わばプレゼンのように設定説明がされており、順序や論理みたいなものを好む僕にとってはとても分かりやすくスッと入ってきました。ただその分、創作における余白の趣みたいなものは少し失われているとも言えるのかも。その後も、よくよく考えれば工場をただただ紹介していくという作業的な流れを、ここまで映画として魅せている技術にも感動しました。

 総じて、かなりメタ的な視点で観ることになったわけですが、科学に依存しないウォンカのファンタジーな哲学には惹かれるものがありました。そして、それとは反対に、直接的間接的問わず”家族”というリアリズム或いは常識みたいなものも強く描かれている気がして、ウォンカ自身もその狭間でずっと揺れていたのかもしれません。最終的には、チャーリーとウォンカが共同経営者になることで素敵なバランスを手に入れたと言えますが、やっぱりパーフェクトにクレイジーなウォンカもカッコよかったなとも思いました。

 ってか、拾ったお金で金のチケット当てたのはええんかい。その後、一切触れられなかったけど……。


おわりに

 というわけで、新たなプロジェクト、いかがでしょうか。このプロジェクト、或いは『ASDと〇〇』を通じて、本記事の冒頭で述べた”自閉にまつわるエトセトラ”(PUFFYさん、借ります)のリアリティを少しずつ詳しく補強していけたらと考えています。大きな山であることは間違いないですが、これからも細々とやっていく予定ですので、興味を持っていただけたら嬉しいです。では。

ASDと映画へのアンサー

どうも。「かんりしゃ」です。
今回も、ASDの特性が出ていたといえば出ている、出ていないといえば出ていなさそうな、「ちゅん」らしい文章でしたね。
あいかわらず蛇足ですが、「かんりしゃ」の感想をアンサーとしてのせます。

映画をみると、誰かとしゃべりたくなります。
「ちゅん」も書いていますが、映画にはおおむね120分という時間的制約があるため、その制約が少ないフォーマットよりも、余白があることが多いと思われます。
その余白は、解釈や感想をうむものになりそうです。だから誰かとしゃべりたくなるのだと思います。
誰かと共有してはじめて(?)、自分の中に落とし込めるのかも?
映画評論とかが多いのは、これゆえなのかな?

「ちゅん」の文章を読んで、「ちゅん」の孤独に触れた感じもしました。「なんか寂しいんやろなー」と感じました。
なんか、ふれた映画を誰かと共有したりしたら、彼の中に映画が位置づけられそうにも思いました。

また、映画って映画館で見た方が良い派です。
わざわざ足を運び、劇場に入り、席を探して座って、スマホの電源切って、暗くなって、「みて」、明るくなって、スマホの電源いれて、会場の外に出て、ご飯のこと考える。
こんな一連の流れが「映画体験」だと思い、最も映画の魅力が体感できるのでは、と思ってます。
スマホでみると、いろんなほかの要素が入りすぎる。。。

物語の摂取は、その物語単体でなく、その体験の仕方が思い出となり、誰かとの共有が発見をうみ、物語+αのことが、自分自身に入ってくるような。この+αなく、物語だけの摂取はなんかむずそう。

3 ASDと映画

 どうも、スタッフの「ちゅん」です。『ASDと〇〇』も第3回になりました。今年度から自分を取り巻く環境が変わり、心境にも変化が生まれています。それに伴って、今回は少し別角度から『映画』というものをテーマに選んでみることにしましたよ。

 やはりどうしても固い文章になっていますが、自分自身そのものに迫るプロジェクトなので、お許しください🎗️


1.『映画』に感じる不成立性、そして自世界の拡張

 今まで、 #1の『RPG』、#2の『サッカー』ともに、僕の好きなものをテーマに置いてきましたが、今回は異なります。むしろその逆、『映画』はあんまり好きではないのです。生涯で観てきた映画の数も数えられるほどですし、放っておけば全くと言っていいほど観る習慣がありません。


Amazon.co.jp: 映画クレヨンしんちゃん オラの引越し物語~サボテン大襲撃~を観る | Prime Video
↑僕が観てきた数少ない映画たちの中でも、なかなか凄かったもの。

  簡単に言えば、映画が持つ娯楽としての性質と、僕自身が持つ特性やら感覚やらの相性が合わないということだと思いますが、そこには少し複雑なものが渦巻いている気がして、敢えてテーマに据えることにしました。全然まとまってないですが、折角なので一緒に考えてくれたら嬉しいです。

 まずは、僕が映画に対してよく感じるモヤモヤを何とか説明してみます。


①メッセージの重さ
 映画って、やっぱりメッセージが在るんですよね。戦争がどうとか犯罪がどうとか、そこまで行かずとも、人間はどう在るべきか、社会はどう在るべきかなどの結構、重いの。勿論、楽しいだけ/面白いだけの映画もあるでしょうけれど、2時間もの間に無数のキャラクターが往来し、無数の会話が展開し、現実の社会と紐づきながら、新幹線のようにストーリーは風を切っていく。そうしてエンドロールが流れたら、「さぁあなたはこの問題をどう解く?」と、宿題のように与えられて終わる。僕にはそんなイメージがあります。

 娯楽なんですから適当に観流してもいいはずですが、 なかなかそれはできません。どうやら僕は、”目の前で起きていること”に対しての没入度が高いようです。現在、色々と環境が変わっていく中で、優先順位が低いと判断できるようなタスクや景色にも、正面から取り合ってしまう傾向があることをより自覚しつつあります。

 よく聞く言い回しだと、”距離が近い”ってことなんでしょうけど、僕はあまりこの表現が好きではありません。何というか、そういう次元の話ではないんです、きっと。


②時間
 次に、これはなかなか伝えるのが難しそうですが、その娯楽を摂取するのに掛かる”時間”というものが、僕と娯楽を語る上での一つの物差しのような気がしているのです。

 例えば、まず”時間”の短い音楽、お笑いのネタ。一曲聴くだけなら、3分から5分くらい。ネタなら長いのもありますが、一般的には数分、長くて10分20分。あっという間ですよね。これくらいの時間なら、何というか自分の中にスッと入ってくる感覚があります。仮にその数分の中でよく分からないことが出てきても、瞬間的に感覚的に燃えて散っていくというところに、ある種の芸術性が宿っているとは思えるので、「まぁそういうもんだよね」と概ね咀嚼することができます。

 例えば、逆に”時間”の長い連続ドラマ、シリーズものの作品、ある程度連載されていた漫画。これらも、摂取し進めていくこと自体の労力は別途感じますが、ずっとその作品と付き合うことによって、どんどん世界観が自分ごとになっていくという感覚があります。こうなると、また自分の中にスッと入ってくる気がするのです。

 余談かもしれないですが、『ONE PIECE』みたいなものが何故感動するのかというのを個人的に考えたりしてるんです。ああいう長期連載作品って、どうしても時間や期間みたいなものが面白さを増幅させている気がするんですよね。伏線みたいなものも読者のリアル年月経過が伴って回収されるわけで、そこに幾らかのマジックがあるような。だから、”時間”って何かしら作用を及ぼしているのではないでしょうか。

 ①で述べたことと照らし合わせれば、2時間という半端な”時間”との相性が悪いのかもしれません。

 「わからないものだよな」と諦めるわけにもいかず、かと言って「わかろうとするにはまだまだ足りないな」という感じ。そういう混乱した状態で、自習室に閉じ込められ宿題を課されると、生活が回らなくなってしまいます。「あぁご飯作らないといけないのに……」、「お風呂に入らないといけないのに……」。そうして僕の生活には、『映画』というものがなかなか入り込まなくなっていきました。


③「だから何?」
 ①と②を踏まえて、敢えて抽象的に整理しようと思います(迷惑?)。

 こうなってくると、映画を観たあとにはよく「だから何?」と感じる場合が多いんです。交差点のようにすれ違うわけでもなく、かと言ってじっくり話して関係を構築していけるわけでもなく、急に現れては意味深な脈絡の話を中途半端に残して去っていく。リアリティを伴っている風に見せかけて2時間でショーは終わり、その半端さはよりフィクションであることが透け透けの白々しさもあるようなないような。

 僕に何をして欲しいんだろう?

 そうして、この体験を一体どのフォルダに収納すればいいのか分からないまま、自宇宙の中をぼんやりと漂ったのちにどこかへ消失していったり、或いは消化できない異物として臓器と臓器の間に挟まり続けるみたいな、何とも言えない感覚になるのです。

 これは、単純に映画というものに慣れ親しんでいないということでもあると思います。音楽やお笑いに関しては、物心が付くか付かないかの頃からたくさん摂取してきて、こういう形式の体験を得たらこのフォルダに収納して咀嚼する、みたいなシステマチックな流れが発達しているんだと思います。

 とはいえ、やっぱりそんな簡単な話でもない気がしていて、こうしてテーマに選んだというところに立ち返ります。矛盾していることが多々あるかもしれませんが、これらをスタートライン/叩き台/データのひとつとして、何かに繋がっていけば嬉しいところです。

 以上、僕が映画に感じていること、分析できること、今までなんとなく避けてきていたニュアンスでした。

 そして、これからも映画というものが自分の中心に来ることは流石になさそうではあるのですが、冒頭でも書いた通り、今現在、自分の環境や心境には変化が訪れています。簡単に言えば、「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してみてもいいかな」と感じているのです。

 敢えてこの言葉を使いますが、”自閉”という性質を持って生きていると、色々と思うところ、衝突するところがあるのです……。このことに関してはまあひと先ず追々でいいのですが、取り敢えずチャプター2では映画を実際に観てアウトプットするということをやってみようと思います!


2.『映画』を摂取してみよう!
 ということで、『映画』というものを改めて摂取してみて、だらだらと何かしらアウトプットしてみようのコーナーです。今、映画らしい映画を観たときに、何を思い何を感じ、どう影響を受けるのかというところに自分でも関心があります。

 今回は、そういう脈絡などを説明した上で、こくりの職員さんにおすすめの映画を紹介してもらうことにしました。他人にオススメしてもらって何かを摂取すること自体、自世界の拡張に繋がると思うので、こういう形式を選びました。

 また、これらの活動は『ちゅんの自世界拡張プロジェクト』なるものに派生しながら同時に動き出しており、そちらでは映画以外のエンタメも含めて自世界拡張を図ろうと考えています。現時点では、お互いのアップロードのタイミングがどうなるか読めてないですが、良かったらどちらも興味を持っていただけたら嬉しいです。


ⓐ3時のカフェインからの紹介『ダイ・ハード4.0』

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 職員「3時のカフェイン」さんから、往年のアクション映画『ダイ・ハード4.0』を紹介してもらいました。言わずと知れた名シリーズだと思いますが、僕が観たことあるはずがありません。こういう機会がなかったら、死ぬまで観なかった気さえしています。

 「3時のカフェイン」さんから紹介してもらった際に、「頭、空っぽにして観てね」というガイドラインを貰っていたおかげか、普段よりは余計なことを考えずに観れたと思います。総じて面白かったような気はするのですが、それでもやっぱりよくわからない感覚もあり、不思議な気分を抱きました。以下、具体的なアウトプット。

 先ずはやっぱり会話が上手すぎる。とにかくできるだけジョークで返す、一度捻ってから相手に返そうとするクリエイティブな姿勢は、日本も見習わないといけないのかもなと感じました。

 そして、ここまでアクションど真ん中を突っ切られると、最早コメディだなと思いました。ニヤニヤしちゃいます。ありえないラッキーとアンラッキーが、ジョン・マクレーン刑事を襲い、相棒のマシュー・ファレルのハッキングスキルに助けられながら、最終的には敵を追い詰めていく。小細工なしのプロトタイプ直球勝負な作風に、「そうそう映画ってこうだよね」と思う一方で、「いやいやアクションしたいだけやないかい」という大きなツッコミも……。

 また、1時間を過ぎたあたりの車中のシーンで、マクレーン刑事は己の運命と悲哀を淡々と語るのですが、そのセリフがアクション至上主義を体現していくストーリーの中でも少し浮いていて、印象に残りました。結局こういうバックボーンさえも、アクションに重厚感を与える演出に過ぎないのかもしれないですけどね。

 上記のシーンは勿論、マシューによる車を動かすためにオペレーターに対して演技をするシーンなど、やっぱり主人公2人は特別素晴らしい俳優でした。アクションシーンとかもどうやって撮ってるんでしょうね。色々とやりすぎなシーンも多々ありましたが……笑。

 全体を通じて概ね好印象な感覚を抱きつつも、とはいえ、「ここまでお金と世界を巻き込んでまですることなんかいな?」とは思いました。やっぱり、それぞれに心地よい規模感ってありますよね。僕の場合、それがとことん小さいのか、現実的なのか生活的なのか。だから、現代劇/日常劇の方が好きなのかもしれません。その分、精神的にグーっとキてしまうのですが……。


ⓑするめからの紹介『PERFECT DAYS』

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 職員「するめ」さんから、2023年の話題作を紹介してもらいました。どれだけ話題になろうと僕が観るはずもないので、勿論初見です。役所広司演じる都内トイレ清掃員の平沢がただ生活する様を描いた作品です。

 素晴らしい映画だったと思います。限りなく台詞が排除され、ナラティブな演出もほんの僅か、”登場人物”じゃなく”物語”じゃなく、ただそこにある”生活”を粛々と描き続ける2時間。あれこれ語ったり分析すればするほど、平沢の愛していた”自然”に人工物を投げ入れるようで気が進まないですが、少しだけまとめておこうと思います。

 奇しくも、今プロジェクトと連動しているような内容でしたね。自世界を生きる平沢が、生活と心がほんの少し揺れるような人間と出来事に遭遇し、時に涙が表出したりしながらも、大衆的な評価や価値に囚われないPERFECT DAYSを送り続けていく。前述の通り、平沢の人間性を考察すること自体、極めて失礼な行為に思えますが、個人的にシンパシーがあるのと少し大事そうな観点を発見したので蛇足ながら共有します。

 清掃員仲間のタカシは、平沢のことを”すごい無口”と形容しています。確かに職人気質でミステリアスな印象も受けますが、タカシがシフトを飛んだことを非難する電話のシーンや、家出してきた姪のニコとの関わりの中では、澱みなく言葉を紡いでいます。必要とされる場面や、自分が大切だと思った場面では、ごく自然に重要な会話をし、外側から勝手に大雑把に見立てられている人柄とはギャップがあるように思います。

 人間って、そんな簡単に法則付けられないんですよね。ましてや、一個人が周囲から評価をされ続けないといけない生活なんてナンセンスです。作中では、自世界や自閉にこだわる生き方に対して批判的なプロットはあまり含まれていないように感じますが、そういったものへのアンチテーゼももしかするとあったのかもしれません。というか、本来その二元論のシーソーで平沢や人間を切り取ること自体が本当に虚しいことですよね。

 今日だって、都内のトイレを清掃して回っているんでしょうか。誰でもないあなたが、誰でもないあなたとして、ただ生活しているということは、 神社の上に広がっていたあの美しい木漏れ日以上に豊かな自然と言えるかもしれません。

 あと、車ってやっぱ良いなー。街の中に自分の部屋が出来る感じ。そういう意味では、トイレなんかもそうなのかもしれないですね。


3. ASDと映画
 上記の紹介してもらったもの以外にも、映画みたいなものを少しずつ摂取するようになってきている今日この頃です。知らない世界や重厚な創作に触れることの豊かさも少しずつ感じ始め、概ね良いムーブメントを行なっている実感もあります。

 ただやはり、その摂取には大きな労力と苦痛が伴うことにはあまり変わりがなさそうです。例えて言うなら、旅行ですかね。楽しく豊かな経験をもたらしてくれる旅行も、毎週毎日行うのは難しいことでしょう。一般的な人からすれば、映画一本観ることくらい隣町のイオンモールに出かける程度のことなのかもしれませんが、僕にとっては北海道沖縄海外に飛び立つようなものです。ましてや、それを強制させられるなんて……。

 結局は、生活の規模感なのかもしれませんね。新しく大それたことを連続的に行う苦痛は、誰しもが覚えるものかもしれませんが、その度合いが一定を超え社会における変動性にそぐわなくなってきたあたりを、たまたま”自に閉じている”と括られているだけなのかもしれません。

 そのただの違いを、”間違ってる”と言われても困っちゃうなぁ。あはは……。

 また、誰でも映画を観終わったあとは、ぼーっと考え込んだりして生活に戻りづらくなったりもするでしょう。それでも、僕がこうしてとにかく生活を大事にしたがるというのは、毎日ルーティンとして行っているものが多かったり、それを崩すのが難しかったりすることに起因しているのかもしれません。一口に「んー、なんか映画って苦手だな」と言っても、水面下では様々な脈絡や感覚が紐づいていたりいなかったりするでしょうし、こうやって、一見なんでもなさそうな切り口でも、思わぬところで太い骨格にぶち当たることもあったりなかったりするでしょう。

 こういう特性だと、映画のみならず何かをどんどん摂取して開拓していくみたいなことは現実的に難しい場合が多くなります。それでも、社会は「とにかくたくさんの経験をしましょう」と間接的に僕を叱ったりします。勿論そういったことも大事ですし、僕としても出来るだけ実践しようと心掛けてはいますが、ひとつひとつのことに対してゆっくり考えて触れ合っていく生き方でも別に構わないはずです。「本当の愛を知るには、生涯でたくさんの人と交際することだ」と言われてる気分です。そうとは限らないのでは?

 あれやこれや言って、最終的には自分と社会との折り合いの問題に絡め取られる部分もあり寂しいですが、いい加減ちょっと文字数が多すぎました。取り敢えず、ここで一旦終わろうと思います。前述の通り、これらの活動と報告は、並行して立ち上がった『自世界拡張プロジェクト』の方に引き継がれ暫く続いていくと思われますので、そちらも是非よろしくお願いします。『ASDと〇〇』ももう少し続きますよ。それでは〜。

ASDとサッカーへのアンサー

どうも。「かんりしゃ」です。
「ちゅん」ががんばって書いた、ASDとサッカーへの応答をさせてもらいます。
蛇足にならんかったらええけど。

まず、思ったのは、「ちゅん」はサッカーが、すごく好きなんでしょうね。
そこまで好きとは知りませんでした。
好きなことがあるのは、うらやましいなーと思います。ええなあ。

そして、なぜサッカーが好きなのかをASD性と絡めていましたが、それは何か後付け感がありました。
あの、見る試合を整理して表にする等はASD性があふれていたように思います。
ただ、サッカーの競技の特性とASDの特性のマッチングに関しては、「かんりしゃ」はピンとこなかった部分もありました。ああやって分析するのは「ちゅん」らしいけど笑。

「かんりしゃ」は、熱狂的野球好きのASD者を知っています。
その人なりの野球の面白さを享受し、日々声援を送り続けています。
ASD性と野球という狭義の特性の相性が悪いわけではありません。「ちゅん」と野球との相性があまりよくないのでしょう。
もしくは、新たなスポーツを娯楽として享受することの腰をあげることとの相性があまりよくないのかもしれません。

けど、もしかしたら、きっと、「ちゅん」が野球と出会う時期や出会い方が違えば、「ちゅん」なりにサッカー級に野球を好きになってたんちゃうかな、とかも思ったりします。

そういう意味では、「ちゅん」はサッカーと出会えて、出会いを出会いとして、それを大切にしたんでしょうね。
「ちゅん」はサッカーに出会えて、それを好きと思えて、享受できる環境があって幸せですね。もう一回言うけど、うらやましいわ。

2 ASDとサッカー

 
 どうも、スタッフのちゅんです。第1回目の『ASDとRPG』が自他ともに好評で、あれぐらいのことはもうあんまり書けそうにないのですが、全4〜5回を目指してまたぼちぼちやっていこうと思っています。

 ということで、第2回のテーマは『サッカー』。基本的に(外国の)サッカー観戦のことを指しているのですが、運動という意味のサッカーも少し出てくると思われます。

 やはり固い文章になっておりますが、自分自身とできるだけ近いところで表現するプロジェクトなので、お許しください



1.I Love Premier League

 プレミアリーグってご存知でしょうか。
 イギリス(主にイングランド)のサッカーリーグのことでして、名実ともに世界最高峰の呼び声高いサッカーリーグです。

↑『24/25 プレミアリーグ 第13節 リヴァプール対マンチェスター・シティ ハイライト』

 上記URLで対戦しているリヴァプール、マンチェスター・シティに加え、マンチェスター・ユナイテッドとかアーセナルとかチェルシーとか聞いたことありますかね。それらのクラブが在籍しており、近年では、ブライトンというクラブにいる三笘薫が大変活躍していることで、日本人にもより親しみがあるリーグになりつつあります。

https://www.youtube.com/watch?v=zJFVTvSK_XU

※『三笘薫のスーパーゴール』

 僕はこのプレミアリーグがあまりにも好きでして、10年に渡ってたくさん試合を観てきています。基本的にはまあただのスポーツ観戦と言って相違ないのですが、この10年間の観戦の折々で、自分にとって大切なことにも出会いましたし、自分の特性と紐付けて考えると面白いこともあるかなと思い、今回テーマに選びました。



2.完全な娯楽って?

いきなり話は少し変わって、娯楽って一体何なんでしょう?

一般的に挙げられるのは、テレビを見たり音楽を聴いたり本を読んだりゲームしたり、またギャンブルなんかも含まれる気がしますが、要はこのあたりの心理的刺激もしくは心理的リラックスを促すものが、広義に娯楽と呼ばれている気がします。

 ただ、このあたりの娯楽みたいなものを摂取するのが僕は少し苦手です。勿論、音楽は大好きですし、物語と触れ合って感動したりワクワクしたりすることもありますが、やはりその摂取には大きな労力と受ける影響があります。作中のメッセージによって、何か社会問題が提示されていたり、とある属性の人間を糾弾するようなものが含まれていると、その意図を汲み取ることやそこからの解決策を考え抜くことなどに生活が乗っ取られ、日常を固定している屋台骨まで揺らいでしまうことも少なからずあります。

 さて、サッカーってどうでしょうか。大前提、これは僕がサッカーが好きという立場から物を言っているポジショントークであることは否めないのですが、サッカーならあまり心理的に揺さぶられません。ここで言う心理的とは、どっちが勝つか分からないハラハラや、試合最終盤での逆転劇などにおけるものではなく、あくまで前述の人間や社会はどう在るべきなのかといったようなニュアンスのものです。映画を2時間観るのとサッカーを2時間観るのでは、含まれてるメッセージの数や重さが全然違います。

 諸々、サッカー特有のメッセージの重さやイレギュラーは存在するとは思いますが、まあ基本的にどの試合を見ても、誰かがドリブルしてパスを回してシュートして、点が入ったり入らなかったりしてどっちかが勝ったり負けたりなどするくらいです。現象として想定される大体の幅には収まります。これが大事です。

 あれこれ個人的な見解を述べましたが、娯楽という、「人間の心を仕事から解放して楽しませ慰めるもの」といった元来の語句通りの脈絡から考えると、サッカー(スポーツ)観戦みたいなものが最適な在り方のひとつなのかもねといった具合です。

 まあ、こないだもとある野球好きの芸人さんが「サッカーはつまらなすぎる、90分間のほとんどが意味がない」と言ってましたが、僕自身はそれを野球に対して感じるので、これは個人それぞれの感覚だと思いますし、サッカーをそう感じるのもよく分かります。スポーツもスポーツで、人間のほとんどが好むようなそう大層なものではないですよね。



3.運動、そして自己へのフィードバック

 学生のころ、僕は遊びで少しサッカーをしていました。運動やスポーツ自体は全然好きではありませんが、サッカーだけはある程度楽しくやっていたというところです。そこから何年か経ち様々な経験をした現在、自分自身の特性と生活のことを踏まえて改めて考えると、やはり運動って大事なんだなと思わされるのです。

 勿論、一般的な健康上、運動が大事というのは言わずもがなですが、ASDの自分からすると少しだけ違う角度の重要性があると分析できます。

 現代、デジタル化されたものが氾濫したことにより、肉体的に与える影響は軽視され、頭と心だけに作用するものが増えてきました。
 また、僕は肉体的な欲求や純粋な身体の機微をありのままキャッチすることが苦手だったりしています。お腹が減って食べたいからごく自然に食事をとる、気になっていることはとりあえず二の次で眠たいから睡眠をとる、など感覚的な動作所作はいつも不自然にというか機械的に行う場合が多いです。

 こういう現代を、こういう特性を持って生活すると、どんどん自分自身が情報的にプログラミングされたような感覚にさえなっていきます。極端に言えば、電脳世界化です。
 そうなると、行動にかかる肉体的コストや、自分が本当にその行動をしたいのかどうかといったことなどが見えづらくなり、脈絡が掴めない疲労や倦怠に苛まれたりすることもしばしば引き起こったりします。

 それに対し、”運動”って一番手近で実感しやすい自分から自分へのフィードバックだと思うので、こういう信号を身体に送って、こういう動作が行われて、その動作に対する触覚/痛覚的なフィードバックってこんな感じだよなぁみたいな、今まさに実際に生きている動物としての実感をちょこちょこ得ていた方がナチュラルだよなぁと感じている次第なのです。

 それぐらい自己ってまあ曖昧なものですよね。


4.観るための工夫、意味付け、そして功罪

 ところで、工夫って大事ですよね。僕の人生においても大きなテーマです。
僕はこのプレミアリーグなるものを週に何試合も観るわけですが、たくさん観るための工夫みたいものを作っています(そもそも何でそんなたくさん観やんとあかんねん、というのは飲みこんでいただきたいです)。

↑『直近の観たい試合のスケジュールと、日本語コメンタリーの担当者表』

 こちらをご覧ください。これは観戦に際しての自作のメモですが、自分に最適化された様式で要点だけ列挙しているスケジュール表です。

↑『観戦した試合の記録』

 それに加えて、1節3試合観戦というガイドルール設定を行なっており、観戦した試合はこのように陳列して記録しています。

 要はどうやって試合を観戦していくか、何を基準にしていくかといったことのシステム化です。これがあるおかげで1試合1試合に”観る意味”が付与され、観戦することがスムーズになっています。昔は観た試合数のカウントまで行っていましたが、そこらへんはだいぶ緩くなりました。

 そもそもでは、なぜこんなことをしないと観れないかというと、やはり”自分自身の感覚的な欲求”をキャッチするのが苦手というところに立ち返ります。

 娯楽なんですから、観たいときに観て観たくないときには観ないでいいはずですが、僕はそういう感覚を拾うのがあまりできません。
前回の『ASDとRPG ⓐ’ I LOVE 秩序&フレーム』で書いた、秩序的に要素たちが整理されていくことに大きな意義を感じ、この地点に僕にとっての楽しさが存在しているとも言えます。

 ただ、こういうシステム化は、疲れているのに観ないといけない……、興味のない試合なのに観ないといけない……、みたいなことも同時に生み出します。

 それはつまり、”自分自身の感覚的な欲求”により鈍くなっていくということで、3章で書いていたことはそういうことです。

 しかしながら、抽象的に要素を認識し整理できるからこそ、こうして自分の世界をマス相手に表現できるとも言えます。

 まあ要はバランスなんですが、そんなに簡単なことでもありませんね。


5.ASDとサッカー

↑ 『僕の1番好きな選手のゴール集』



 さあ、まとめの章です。言いたいことは大体言いましたし、今回に関してはそこまで体系的な論述をしたいわけでもないので、大してまとめることもない気がしますが、何となく大事そうなことを最後に少し整理しておこうかなと思います。

 そもそもサッカーって何なんでしょう、というのを最後に考えてみようと思います。勿論、答えなんか無いですし結構どうでもいいですが、無理やり考えます。

 競技人口やらファン人口やら世界の隅々まで普及していることなどを考えると、やはりサッカーは3本の指に入るくらいのスポーツだと思います。

 そこには、ゴールにボールが入れば点が入るという単純で視認性に優れたルール設計であることが手伝っている気がします。何度も引き合いに出して大変恐縮ですが、野球とかは初見だとどうなったら点が入るかというところが視覚的にはあまり伝わりにくいルール設計です(そのぶん奥が深いですが)。

 (ASDの)自分にとって、視認性が優れているという観点は、スポーツのみならずとても重要だと感じていて、やはり前回の『ASDと RPG ⓐ規則性』でも、そのような話をしました。サッカーの試合の映像って、両チームがフォーメーションを綺麗に整えていて、ピッチを構成する要素も洗練されており、自分にとっては観ていて気持ちいいんです。

 ただこれを別の側面で見ると、曖昧なものが苦手な特性を持つ(ASDの)自分が、ファウルの判定だったり、可視化されていないオフサイド、暗黙の駆け引きなどその他諸々に、そこまで引っかからずに観戦できているという事実もあります。

 自分の中にまだ解明されていない(ASDの)特性があって、それとサッカーが深層的に強く結びついているのかもしれないですし、はたまたその人の全てが(ASDの)特性によって影響を受けるわけでもないでしょう。

 その上、解明してしまうことってやっぱり功罪あって、
 それまでごく自然に行われ楽しめていたものが、研究と分析によって急激に意識を与えられ、飼い慣らされた楽しみに変わってしまうこともあります。

 人間、ある程度無理なくスムーズに摂取できるものが、生活の中の大切なルーティンとして息づき残っていくと思っているので、そういう意味では、僕にとってのサッカーはある程度研究せずに、日常の安定したほんのスパイスとしてそっとしておくぐらいが良いのかもなと思ったりもします。

 何も見えない靄の中で暮らすのも、苦しいですが、何もかも透き通って見えてしまう暮らしもまた苦しいですからね。

 ということで、サッカーに付随することはまだまだ語りたいことがありますが、今回はとりあえずここまでに。また第3回で会えたら嬉しいです。


参考文献
つながりの作法、綾屋紗月・熊谷晋一郎、2010、生活人新書