どうも。「かんりしゃ」です。
「ちゅん」ががんばって書いた、ASDとサッカーへの応答をさせてもらいます。
蛇足にならんかったらええけど。
まず、思ったのは、「ちゅん」はサッカーが、すごく好きなんでしょうね。
そこまで好きとは知りませんでした。
好きなことがあるのは、うらやましいなーと思います。ええなあ。
そして、なぜサッカーが好きなのかをASD性と絡めていましたが、それは何か後付け感がありました。
あの、見る試合を整理して表にする等はASD性があふれていたように思います。
ただ、サッカーの競技の特性とASDの特性のマッチングに関しては、「かんりしゃ」はピンとこなかった部分もありました。ああやって分析するのは「ちゅん」らしいけど笑。
「かんりしゃ」は、熱狂的野球好きのASD者を知っています。
その人なりの野球の面白さを享受し、日々声援を送り続けています。
ASD性と野球という狭義の特性の相性が悪いわけではありません。「ちゅん」と野球との相性があまりよくないのでしょう。
もしくは、新たなスポーツを娯楽として享受することの腰をあげることとの相性があまりよくないのかもしれません。
けど、もしかしたら、きっと、「ちゅん」が野球と出会う時期や出会い方が違えば、「ちゅん」なりにサッカー級に野球を好きになってたんちゃうかな、とかも思ったりします。
そういう意味では、「ちゅん」はサッカーと出会えて、出会いを出会いとして、それを大切にしたんでしょうね。
「ちゅん」はサッカーに出会えて、それを好きと思えて、享受できる環境があって幸せですね。もう一回言うけど、うらやましいわ。
2 ASDとサッカー
どうも、スタッフのちゅんです。第1回目の『ASDとRPG』が自他ともに好評で、あれぐらいのことはもうあんまり書けそうにないのですが、全4〜5回を目指してまたぼちぼちやっていこうと思っています。
ということで、第2回のテーマは『サッカー』。基本的に(外国の)サッカー観戦のことを指しているのですが、運動という意味のサッカーも少し出てくると思われます。
やはり固い文章になっておりますが、自分自身とできるだけ近いところで表現するプロジェクトなので、お許しください
1.I Love Premier League
プレミアリーグってご存知でしょうか。
イギリス(主にイングランド)のサッカーリーグのことでして、名実ともに世界最高峰の呼び声高いサッカーリーグです。
↑『24/25 プレミアリーグ 第13節 リヴァプール対マンチェスター・シティ ハイライト』
上記URLで対戦しているリヴァプール、マンチェスター・シティに加え、マンチェスター・ユナイテッドとかアーセナルとかチェルシーとか聞いたことありますかね。それらのクラブが在籍しており、近年では、ブライトンというクラブにいる三笘薫が大変活躍していることで、日本人にもより親しみがあるリーグになりつつあります。
https://www.youtube.com/watch?v=zJFVTvSK_XU
※『三笘薫のスーパーゴール』
僕はこのプレミアリーグがあまりにも好きでして、10年に渡ってたくさん試合を観てきています。基本的にはまあただのスポーツ観戦と言って相違ないのですが、この10年間の観戦の折々で、自分にとって大切なことにも出会いましたし、自分の特性と紐付けて考えると面白いこともあるかなと思い、今回テーマに選びました。
2.完全な娯楽って?
いきなり話は少し変わって、娯楽って一体何なんでしょう?
一般的に挙げられるのは、テレビを見たり音楽を聴いたり本を読んだりゲームしたり、またギャンブルなんかも含まれる気がしますが、要はこのあたりの心理的刺激もしくは心理的リラックスを促すものが、広義に娯楽と呼ばれている気がします。
ただ、このあたりの娯楽みたいなものを摂取するのが僕は少し苦手です。勿論、音楽は大好きですし、物語と触れ合って感動したりワクワクしたりすることもありますが、やはりその摂取には大きな労力と受ける影響があります。作中のメッセージによって、何か社会問題が提示されていたり、とある属性の人間を糾弾するようなものが含まれていると、その意図を汲み取ることやそこからの解決策を考え抜くことなどに生活が乗っ取られ、日常を固定している屋台骨まで揺らいでしまうことも少なからずあります。
さて、サッカーってどうでしょうか。大前提、これは僕がサッカーが好きという立場から物を言っているポジショントークであることは否めないのですが、サッカーならあまり心理的に揺さぶられません。ここで言う心理的とは、どっちが勝つか分からないハラハラや、試合最終盤での逆転劇などにおけるものではなく、あくまで前述の人間や社会はどう在るべきなのかといったようなニュアンスのものです。映画を2時間観るのとサッカーを2時間観るのでは、含まれてるメッセージの数や重さが全然違います。
諸々、サッカー特有のメッセージの重さやイレギュラーは存在するとは思いますが、まあ基本的にどの試合を見ても、誰かがドリブルしてパスを回してシュートして、点が入ったり入らなかったりしてどっちかが勝ったり負けたりなどするくらいです。現象として想定される大体の幅には収まります。これが大事です。
あれこれ個人的な見解を述べましたが、娯楽という、「人間の心を仕事から解放して楽しませ慰めるもの」といった元来の語句通りの脈絡から考えると、サッカー(スポーツ)観戦みたいなものが最適な在り方のひとつなのかもねといった具合です。
まあ、こないだもとある野球好きの芸人さんが「サッカーはつまらなすぎる、90分間のほとんどが意味がない」と言ってましたが、僕自身はそれを野球に対して感じるので、これは個人それぞれの感覚だと思いますし、サッカーをそう感じるのもよく分かります。スポーツもスポーツで、人間のほとんどが好むようなそう大層なものではないですよね。
3.運動、そして自己へのフィードバック
学生のころ、僕は遊びで少しサッカーをしていました。運動やスポーツ自体は全然好きではありませんが、サッカーだけはある程度楽しくやっていたというところです。そこから何年か経ち様々な経験をした現在、自分自身の特性と生活のことを踏まえて改めて考えると、やはり運動って大事なんだなと思わされるのです。
勿論、一般的な健康上、運動が大事というのは言わずもがなですが、ASDの自分からすると少しだけ違う角度の重要性があると分析できます。
現代、デジタル化されたものが氾濫したことにより、肉体的に与える影響は軽視され、頭と心だけに作用するものが増えてきました。
また、僕は肉体的な欲求や純粋な身体の機微をありのままキャッチすることが苦手だったりしています。お腹が減って食べたいからごく自然に食事をとる、気になっていることはとりあえず二の次で眠たいから睡眠をとる、など感覚的な動作所作はいつも不自然にというか機械的に行う場合が多いです。
こういう現代を、こういう特性を持って生活すると、どんどん自分自身が情報的にプログラミングされたような感覚にさえなっていきます。極端に言えば、電脳世界化です。
そうなると、行動にかかる肉体的コストや、自分が本当にその行動をしたいのかどうかといったことなどが見えづらくなり、脈絡が掴めない疲労や倦怠に苛まれたりすることもしばしば引き起こったりします。
それに対し、”運動”って一番手近で実感しやすい自分から自分へのフィードバックだと思うので、こういう信号を身体に送って、こういう動作が行われて、その動作に対する触覚/痛覚的なフィードバックってこんな感じだよなぁみたいな、今まさに実際に生きている動物としての実感をちょこちょこ得ていた方がナチュラルだよなぁと感じている次第なのです。
それぐらい自己ってまあ曖昧なものですよね。
4.観るための工夫、意味付け、そして功罪
ところで、工夫って大事ですよね。僕の人生においても大きなテーマです。
僕はこのプレミアリーグなるものを週に何試合も観るわけですが、たくさん観るための工夫みたいものを作っています(そもそも何でそんなたくさん観やんとあかんねん、というのは飲みこんでいただきたいです)。

↑『直近の観たい試合のスケジュールと、日本語コメンタリーの担当者表』
こちらをご覧ください。これは観戦に際しての自作のメモですが、自分に最適化された様式で要点だけ列挙しているスケジュール表です。

↑『観戦した試合の記録』
それに加えて、1節3試合観戦というガイドルール設定を行なっており、観戦した試合はこのように陳列して記録しています。
要はどうやって試合を観戦していくか、何を基準にしていくかといったことのシステム化です。これがあるおかげで1試合1試合に”観る意味”が付与され、観戦することがスムーズになっています。昔は観た試合数のカウントまで行っていましたが、そこらへんはだいぶ緩くなりました。
そもそもでは、なぜこんなことをしないと観れないかというと、やはり”自分自身の感覚的な欲求”をキャッチするのが苦手というところに立ち返ります。
娯楽なんですから、観たいときに観て観たくないときには観ないでいいはずですが、僕はそういう感覚を拾うのがあまりできません。
前回の『ASDとRPG ⓐ’ I LOVE 秩序&フレーム』で書いた、秩序的に要素たちが整理されていくことに大きな意義を感じ、この地点に僕にとっての楽しさが存在しているとも言えます。
ただ、こういうシステム化は、疲れているのに観ないといけない……、興味のない試合なのに観ないといけない……、みたいなことも同時に生み出します。
それはつまり、”自分自身の感覚的な欲求”により鈍くなっていくということで、3章で書いていたことはそういうことです。
しかしながら、抽象的に要素を認識し整理できるからこそ、こうして自分の世界をマス相手に表現できるとも言えます。
まあ要はバランスなんですが、そんなに簡単なことでもありませんね。
5.ASDとサッカー
↑ 『僕の1番好きな選手のゴール集』
さあ、まとめの章です。言いたいことは大体言いましたし、今回に関してはそこまで体系的な論述をしたいわけでもないので、大してまとめることもない気がしますが、何となく大事そうなことを最後に少し整理しておこうかなと思います。
そもそもサッカーって何なんでしょう、というのを最後に考えてみようと思います。勿論、答えなんか無いですし結構どうでもいいですが、無理やり考えます。
競技人口やらファン人口やら世界の隅々まで普及していることなどを考えると、やはりサッカーは3本の指に入るくらいのスポーツだと思います。
そこには、ゴールにボールが入れば点が入るという単純で視認性に優れたルール設計であることが手伝っている気がします。何度も引き合いに出して大変恐縮ですが、野球とかは初見だとどうなったら点が入るかというところが視覚的にはあまり伝わりにくいルール設計です(そのぶん奥が深いですが)。
(ASDの)自分にとって、視認性が優れているという観点は、スポーツのみならずとても重要だと感じていて、やはり前回の『ASDと RPG ⓐ規則性』でも、そのような話をしました。サッカーの試合の映像って、両チームがフォーメーションを綺麗に整えていて、ピッチを構成する要素も洗練されており、自分にとっては観ていて気持ちいいんです。
ただこれを別の側面で見ると、曖昧なものが苦手な特性を持つ(ASDの)自分が、ファウルの判定だったり、可視化されていないオフサイド、暗黙の駆け引きなどその他諸々に、そこまで引っかからずに観戦できているという事実もあります。
自分の中にまだ解明されていない(ASDの)特性があって、それとサッカーが深層的に強く結びついているのかもしれないですし、はたまたその人の全てが(ASDの)特性によって影響を受けるわけでもないでしょう。
その上、解明してしまうことってやっぱり功罪あって、
それまでごく自然に行われ楽しめていたものが、研究と分析によって急激に意識を与えられ、飼い慣らされた楽しみに変わってしまうこともあります。
人間、ある程度無理なくスムーズに摂取できるものが、生活の中の大切なルーティンとして息づき残っていくと思っているので、そういう意味では、僕にとってのサッカーはある程度研究せずに、日常の安定したほんのスパイスとしてそっとしておくぐらいが良いのかもなと思ったりもします。
何も見えない靄の中で暮らすのも、苦しいですが、何もかも透き通って見えてしまう暮らしもまた苦しいですからね。
ということで、サッカーに付随することはまだまだ語りたいことがありますが、今回はとりあえずここまでに。また第3回で会えたら嬉しいです。
参考文献
つながりの作法、綾屋紗月・熊谷晋一郎、2010、生活人新書
「サイドショー」のイラスト④
イラスト第4弾です。
テーマは新年度らしいです!

「サイドショー」のイラスト③
今回のテーマは「梅見」
こくりでいったやつをイラストにしてます。彼の世界観やなー

「サイドショー」のイラスト②
今回のテーマは「節分」です。
「サイドショー」のイラスト用のHPの場所をつくりました。

「ゼロカロリーのピーちゃん」のひまわり物語2024 ⑧
どうも「ゼロカロリーのピーちゃん」です。
とうとうひまわりの種を福島に送りました。
遅くなったけど送れてよかったです。
今年で終わりかな?
今までありがとうございました。

「サイドショー」のイラスト①
どうも。「かんりしゃ」です。
「サイドショー」は独特の感性とタッチで、自分の頭の中にある映像を絵にします。
今回は「12月」「1月」というテーマで絵を描いたそうです。

ちょこちょこのせていきますね☺
ASDとRPGへのアンサー
どうも。「かんりしゃ」です。
「ちゅん」のASDと〇〇には、「ちゅん」の文章とともに、「かんりしゃ」のアンサー、つまり応答をして、ひとつとしていました。
ですので、この記事は、この「ちゅん」のブログのアンサーです。
「ちゅん」が書いたのが、11/12です。約2ヵ月たちました。
ずっと「かんりしゃ」の頭の中には、このアンサーをしないといけないと思いつつ、手と頭が動きませんでした。
その動かなさの要因を考えると、「ちゅん」の文章がステキで的確やったからやと思います。
自分のASD的とされる世界観をもとに、RPGのことを考えており、それをしっかりとした言葉を選んで表現している。
何か、これに対するアンサーって蛇足でしかないよな、と思い、手が動かなかったのやと思います。
この感想自体が、アンサーなので、みなさん改めて、ブログを読んでください。よい文章ですよ。
かつては、ドラクエなどは、すごく多くの方が触ったことがあるゲームだったと思います。
他のメディアもそうですが、今はどんどん細分化され、種類も多くなり、みんなが触ったことがあるゲームってのがなくなってきましたね。
ゲーム選び自体も、枠がなくオープンな世界になってきたのかもですね。
では、第2回を、首を長くして待ちましょう。
1 ASDとRPG
第1回はゲームのジャンルであるRPGをテーマにしてみます。RPGについての簡単な説明と分析をしたのち、ASDと紐づけていく構成です。
少し堅苦しい内容かもしれませんが、このプロジェクトはこの方向性で頑張ってみようと思ってます。よろしくお願いします
1.RPGとは?
まず最初に、そもそものRPG自体の説明をさくっとしてみようと思います。
広義にRPG(ロールプレイングゲーム)とは、コンピューターゲームジャンルの一つで、主人公とその仲間がパーティ(集団)を組んで、世界中の街やダンジョンを冒険し、能力や装備を強化したりしながら、待ち構える敵たちと戦い、平和を目指すと言った感じのものです。勿論、作品により内容は様々ですが、概ねこんな形式です。
お馴染みの 『ドラゴンクエストシリーズ』、『ファイナルファンタジーシリーズ』、『ポケットモンスターシリーズ』などが代表的な作品ですね。いずれも日本のみならず世界中での人気を誇り、ゲーム業界を牽引するジャンルの一つと言えます。
父親の影響により、僕は5歳くらいからドラクエを触っていたと思います。今時そうでもないかもしれませんが、どちらかと言えばゲームを触る年齢としては早かったような気もします。おまけに戦術ややりくりが多分に求められるRPGを、僕は感覚的にほぼ問題なくプレイしていました。今思えば、生まれながらの特性であるASDとRPGにはもしかすると親和性があったのかもしれません。
2.RPGらしい要素
チャプター2では、RPGのRPGらしい要素たちを何個かピックアップして紹介してみたいと思います。
ⓐ規則性
ゲームというもの自体に言えることかもしれませんが、特にRPGは規則性に満ちたデザインがなされていることが多いです。
例えば、多くのRPGが採用している敵との戦闘におけるターン制システム。乱雑に攻守が交錯するのではなく、味方が1回行動したら、敵も1回行動するという大変秩序的なバトルデザインです。
他にも整然としたゲーム画面表示にも美しい規則性が宿っていると感じます。
これはほとんど印象操作というかポジショントークなのかもしれないのですが、このスーパーマリオRPGを代表とする任天堂やスクエアエニックスのRPGは、本当に画面の中の情報認識がし易く設計されてるように感じます。(最近のアプリゲームとかオンライン系のゲームとか、一画面でとんでもない情報量なので……)。
とにかくゲームの端から端まで、規則によって秩序的に表現されているものがRPGには多いイメージです。
ⓑコツコツ性
RPGは他のゲームジャンルと比べると、コツコツやっていけばクリアできるように設計されていることが多いです。
例えば、レベルという概念。敵を倒すと経験値が入手でき、その経験値が一定溜まるとレベルアップし、仲間たちが強くなっていくというものです。作品にもよりますが、このレベルは最大99ほどに到達するまではゲームの進行度合いに関わらずどんどん上げることができ、時間こそかかってもコツコツたくさんレベルを上げていれば、強敵であっても楽に倒せることもしばしばです。
その分、突発的なプレイングスキルや運によって道が開けることは少ないとも言えますが、ある意味平等的なデザインだと思います。
ⓒ 適度な自由性
かなり重要な要素だと思います。RPGにおける適度な自由性を語る前に、ゲームそのものの自由性、もっと言えばその手前の主体性みたいなものについて書いておこうと思います。
1985年にファミコン用ソフトとして発売された『スーパーマリオブラザーズ』。その一番最初のコース、1-1のスタート画面を思い出してみてください。
マリオは画面全体のやや左に立っており、顔は右を向いています。その先には広大なスペースがあり、手元にはいかにも右に進めそうなコントローラーの十字キー。これにより、多くの人間が、「右に進んでいくのだろう」と感じることができ、「早く右に操作したい!」というプレイヤー自身の主体性を促すことができるデザインになっていると聞いたことがあります(2019、玉樹)。
ゲームのみならず、本当に素晴らしいデザイン、考え方だと思います。
そして、この主体性を維持させるために、自由性という要素が大きく関わってくると思います。
まず、RPGを分析する上でよく登場するものとして、”おつかい”という概念を紹介します。例えば、村に居る人々に話しかけると、「村長が悪い呪いにかかってしまって、それを治すには村の北にある洞窟の奥に咲く花の蜜が必要なんだけれど、あの洞窟には魔物がいっぱい棲んでいて近づけないんだ…… ああ誰か腕の立つ者はいないだろうか……」のような、いかにもプレイヤーにそれを実行して欲しいかのような仄めかしを口にしたりするのです。
これにより、やるべきことがプレイヤーの中でもはっきりする反面、仄めかしが強すぎたり多用しすぎたりすると「なんかおつかいしてばっかりだな」という印象も持たれかねません。
そう考えると、それとない示唆やシステムデザインによって、プレイヤーに選択肢や深層的動機をちょうどよく与えつつ、随所でプレイヤーそれぞれが持つ個性のグラデーションを受け入れられる余裕を持つみたいなことが、適度な自由性に繋がるのではないかと感じます。
そういうバランスが、RPGはすごく丁度いいというか丁寧というか、そもそもそういう概念自体を生み出したのもRPGだったりしそうですが、とにかく心地よくプレイできる場合が多い気がするのです。
3.ASDと RPG
最後に、チャプター2の要素たちをASDと紐付けて研究してみようと思います。
ⓐ’ I LOVE 秩序&フレーム
僕は、物事や要素が規則的に並んでいたり、並列的で平等に扱われていたりすることにとても落ち着きます。反対に、物事や要素が乱立し無秩序だと、途端にそれらを認識することが難しくなり、まずはそれらを体系的に整えることから着手する傾向にあります。
これはすごくニュアンスの表現なんですが、情報と情報とが直角に交わっていることが理想的だったりします。情報と情報とが直角に交わることが連なれば、やがてそれは美しいフレームを形成することになり、とても認識しやすくなります。
例えるなら、ショーケースの中に美しく並んだミニカーのようです。ミニカーという基本的に同じ形のものが、同じ向きで綺麗に陳列され、縦と横が直角に交わるガラスの仕切りによって整理され、最後に蓋をされることによって体系的な情報群として大きな意味性、成立感を持つ……という感じです。
このようにRPGは、情報群がショーケースの中で体系的に陳列されているように感じます。だから、僕が認識しやすいんだと思います。
正直、何を言ってるか全然分からないと思うのですが、僕が生きている感覚を精一杯表現するとこうなります。
というか、こういう文体と構成で文章を書くということ自体が、陳列的な世界で暮らしているという事実に他ならない気がしています。
ⓑ’ マメで真面目な人が報われる
色々関わってくれている周りの人からすると、僕は結構マメで真面目みたいです。ただ、自分の実体験も含めた偏見を繰り出すと、そういう人って逆に損をしてしまったり、周りに付いていけなくなったりすることもよくある気がします。これも結局、マジョリティとマイノリティの話に発展していくのですが、今回はとりあえず置いといて、真面目な人って割を食うことも往々にしてあるよねぐらいの仮説でこの後の文章を展開させてください。
こういうゲームがありまして、最近ずっとプレイしていました。少しアクション要素があるゲームデザインですが、概ねRPGだと思います。細かい世界観のことは今回省きますが、何を言いたいかと言うと「マメな人が報われるゲームだったよ!」ってことなんです。
RPGにはクエストというシステムがありまして、街の人なんかから依頼を受け、それを達成するとアイテムや装備が貰えて冒険が有利になるみたいな感じのものです。そういうクエストがこのゲームには山ほど用意されていて、「あそこであの人が困っていたな」とか「あそこのあれって解決したんだっけ?」みたいな僕のマメさや記憶力が結果的に冒険を大いに助けてくれたのです。
丁寧すぎる生き方をすると、周りから置いていかれることもしばしばかもしれませんが、RPGの世界の中では飽くまで自分のペースを貫くことができ、且つRPG自体もそれを評価してくれたりします。素敵!
ⓒ’ 自己表現のカタチを探して
”適度な自由性”の前フリがどう自己表現に繋がるのか疑問かもしれませんが、何とか繋げてみたいと思います。
昨今、チャプター2で紹介したこの”適度な自由性”を、脅かす存在が生まれました。”オープンワールドシステム”というものです。
”オープンワールドシステム”とは、冒険を始めた最初の段階からワールドマップが際限なく広がり、ストーリーを進める順番ですらプレイヤーに委ねられるような形式のゲームシステムです。
ポケモンシリーズの最新作。従来の2Dの世界から大きく解き放たれ、立体的で広大なマップを自由に探索するゲームデザインに進化しましたが、その側面には余りにも果てしない冒険を強いられる苦しさも宿っていました……。
勿論、こういうプレイヤーの好奇心や主体性を大きくくすぐるアプローチも楽しいものだと思いますが、近年開発されるほぼ全てのRPGがこういう形式を採用していく潮流には些か疑問が残ります。
これは僕の偏った考えかもしれませんが、ゲームとは非社会的なものでないといけないと思うのです。オープンワールドシステムを採用してしまうと、ありとあらゆる物事たちに優先順位を付けなければいけなかったり、諦める箇所を作らないといけなかったり、自分で自分のお尻を叩かないといけなかったりと、すごく社会的な能力が求められてしまいます。その結果、「何かゲームの中でも働いてない?」みたいな感覚に襲われることもしばしばです。 “自由とは不自由だ”とはよく言ったもので、「今からずーっと何してもいいよ」と言われると案外困ったりする人も居るんじゃないでしょうか。
僕のゲーム人生の原点であり頂点の作品です。広がる自然に対する好奇心がちょうど枯れないくらいのマップの広さに加え、様々な要素のデザインが丁寧で綺麗にフレームに収まっている感じがします。
こう考えていくと、僕にとってRPGは自己表現、存在確認の大きなひとつであるように感じます。社会の中で暮らしていると、どうしてもマジョリティという物差しに基準を合わせられ、その接点には障害という概念が生まれてしまいますが、RPGという世界の中では、野放しにされるわけでもお節介を焼かれすぎるわけでもない絶妙なバランスで、僕の在り方をサポートしてくれている気がするのです。
人間自体にも言えることですが、特にASDは自分の内側にあるものをどうやって表現、確認するかといったところに生涯翻弄されるもののような気がします。
他人からは思いもしない場所で、その人は自己の何かを表現し、何かを確認しているのかもしれません。
以上、多分に個人性や偏った論旨展開を含むコラムでしたが、僕の中ではある程度腑に落ちてたりします。
第1回はここまで。読んでいただきありがとうございました。
【参考文献】
・『「ついやってしまう」体験のつくりかた』 玉樹真一郎 2019 ダイヤモンド社
友だちブログ 「てって」の場合
私の思う友達関係とは
一緒に居てホッと安心出来たり
笑いのツボが同じだったり
その人が嬉しいと私も嬉しくなったり
信頼出来たり
考え方がポジティブだったり
時にはそっとしていてくれたり
無理せず自然体でいられる関係です