友だちブログ 「かんりしゃ」の場合

友だちというテーマで考えると、ある一人の人が思い浮かぶ。ふと思い浮かぶこの人は「かんりしゃ」にとって友だちなのだろう。
 
親子は血縁関係、恋人は大概告白みたいな口約束がある。職場の仲間も雇用契約などをもとにした関係である。
 
けど、友だちにはそれらの決まりごとや約束ごとがないなーと思った。友だちになろうと言ってなることは、少なくとも「かんりしゃ」にはなく、何となく近しいところにいて、それが、結果的に友だちかなって思ってるくらい。

そう考えると、友だちって、すごくあいまいで不安定で貴重やな、と思う。

先にあげたあの人は、たぶんむこうも「かんりしゃ」のことを友だちと思っていそう。それがあるからこちらも安心して「友だち」とすんなり言えるのだと思う。約束はしてないけど友だち。

別に大切な話もしないし、してもいい。けど基本どうでもいいことの情報交換だけしてる。密に連絡をとってもいいし、とらなくてもいい。たぶんお互いに歳をとったら、一緒に何かする(つりチーム結成みたいな!)やろな、と思っている。けどそれをしなくてもよいとも思ってる。

大切でもない、どうでもいい時間を長く過ごしたから、どうでもよくて、けどどうでもよいと思えること自体がすごく大切でありがたい感じ。友だちやなー。

友だちブログ 「398」の場合

私にそれほど友達はいない。
いない、と書いているものの、片手で数えられるくらいには友達はいる。

元々はもっといたような記憶はあるが、数十年生きていると疎遠になる。
なので、昔は友達だったけど今は友達じゃなさそう…みたいな人がたくさんいる。
友達みたいな人は8割7割、自分と趣味や嗜好が合っている人のことを指すと思う。

では、友達みたいな人とは違う友達とはどういう人なのか。パっと思いつく人がいるのでその人について考えてみる。前述した人たちとは異なり、その人と私の趣味や嗜好はあまり合っていない。不思議な話であるが、一致する割合としては半分もないのではないかと思う。50%一致しているかどうか、というくらいである。ただ、私にとってたしかにその人は友達だと言える。趣味や嗜好があまり合っていないこと以外に何か違うことは何だろうと考えてみる。思い当たるのは、私がその人に対してスゴイ!と思っていること。この人は本当にスゴイ人だなぁというきもちを抱いている。リスペクトである。私にとって友達とは、その人をスゴイと思えるか。リスペクトできる人物かどうかが重要になっているようである。

友だちブログ 「おすし」の場合

私にとって「友達」とは、人生により彩りを与えてくれるものだと感じています。言語化が非常に難しいのですが、必要不可欠だけど必要不可欠でもない気もする、というような感じです。

例えるなら、自分自身がサラダだとしたら友達はドレッシングです。ドレッシングには様々な種類があり、様々な味のサラダになることができます。また、私は何もかけずにサラダを食べることも好きです。好きな時に好きな味で食べたいので、いろんな種類のドレッシングを常備しておきたい気持ちがあります。

つまり、私ひとりで過ごす時間も好きだし、私の人生のメインは私です。しかし刺激を与えてくれたり、視野を広げてくれたり、より人生をおいしくしてくれるのは友達の存在があるからだと感じています。ドレッシングに頼りすぎなくてもサラダだけでもおいしいと感じる、でも味気ない時もある、なので必要不可欠だけど必要不可欠でもないと最初に述べました。ちなみに私自身が楽に生きる工夫として、ドレッシングとは程よい距離感で付き合うことを意識しています。サラダだけでも十分おいしいと感じれるように。

私の友人にとっても私がドレッシングのような存在でありたいと思っています。

友だちブログ 「キキ」の場合

キキにとって友達とは何でしょうか?
考えてみました。すきな物が似ている人、同じ趣味がある人、
苦手なことが似ている人、最近ハマったと?、金銭感覚が合う人?、つきあいが長い人?
いろいろ思い浮かびます。
でもそう考えた時にウマが合わない人でも「友達」と呼べる人もいるなぁとも思いました。
じゃあ友達ってなんなんや…また最初の考えに戻ってきました。
えぇ…改めて考えたことなかったので相当難しいですね。
ちょっとじっくり時間をかけて、休日に散歩したり、ぼーっと景色を眺めたり、本をよんだりなんかして考えてみました。

たぶん、今の私のなかでの「友達」は「私とあなたが対等に話せる間柄」なんじゃないかなというふんわりした考えがうまれました。でも「対等」って私が一方的に思うだけ、一方通行のときもあって、それって結局対等なんかなぁとも思います。いやー難しい。
答えらしいものはできなかったですが、今のキキの考えはこんな感じやと思いました。

友だちブログ 「3時のカフェイン」の場合

「友達」にもいくつかの種類があるのかな、と思いました。

気を許し合える親しい相手、会えば世間話するくらいの相手など、距離感は色々かもしれません。
そういった関係ぜんぶひっくるめて友達と言えてしまうというか。

自分の感覚になりますが、大人になるほど前者の「気を許し合える親しい」友達を作るのが難しくなっているような気がします。
気恥ずかしさとか、勇気が出ないとか、ちょっと面倒くさいとかそういうものに勝てなくなったのかな、と思ったりします。
大人になっても身軽に友達をつくったり、何ならその日たまたま出会った全くの他人と仲良くなったりする人もいるからすごいですね。
うらやましいような、そうでもないような。

こう考えてみると、人によって「友達」の範囲も基準も全然ちがうのかもしれません。
例えば、友達と顔見知りの境界もはっきりとは無いから、やっぱり人によって違うでしょうし。

ある意味ものすごく自由な概念なのかもしれません、友達。

友だちブログ 説明

 どうもです、スタッフのちゅんです。
 
 いきなりですが、”友だち”って何でしょう。当たり前の存在でありながら、改めて考えるとよく分からない存在だったりもして、なかなか難しいですよね。かく言う僕もそれについてよく悩んでおり、その旨をちょこちょこかんりしゃさんに相談していたところ、「では、ちゅんも含めた色んな人に”友だち観”について文章を書いてもらおう!」という本企画が生まれたのです。ということで今回は、立場や境遇の異なる全〇人の方に、”友だち観”について書いてもらいました。それぞれの個性が光り、多様な”友だち観”に触れることができると思いますよ。是非読んでみてください。

ASDと〇〇 #0

 ご無沙汰してます、ちゅんです。今回また、新たな企画が生まれ、始まろうとしています。その名も『ASDと◯◯』。訳わかんないタイトルですよね。ということで、以下説明……。

 僕は、ASD(自閉スペクトラム症)という発達障害を持っています。お医者さんが診断を確定し、低い等級ながら障害者手帳も下りるほどのある意味立派な障害のひとつです。昨今、このASDのみならず発達障害というものが、あれやこれや様々なメディアやら個々人の口から語りに語られ、それによって一定のデータが社会に蓄積していってはいるものの、どこか本質的でないような、具体的でないような、臨床的でないような、結果だけしか見てないような、そんな違和感というかズレ感みたいなものがまだまだある気がしているのです。

 そんな社会の中でひっそりと暮らしている僕という僕でしかない当事者が、どのような感覚で出来事やらエンタメやらを摂取し、処理し、愛しているのかを、かんりしゃさんからの返信付きコラム調形式でお送りしようと思い立ちました。なので、ASDというものが医学的や広義的にはどう解釈され位置付けられているのかといった外側からの見立ては出来るだけ省いて書いていこうかなと考えています。僕という僕でしかない当事者が、何となくこっちの方が心地良いなぁという感覚を駆使してなんとか懸命に生きている様子のほんの一端のほんの一文字でも、どこかでこの記事を読んでいる誰かに届けばいいなと思って綴ります。よろしくお願いします〜。