どうも、スタッフの「ちゅん」です。『ASDと〇〇』も第3回になりました。今年度から自分を取り巻く環境が変わり、心境にも変化が生まれています。それに伴って、今回は少し別角度から『映画』というものをテーマに選んでみることにしましたよ。
やはりどうしても固い文章になっていますが、自分自身そのものに迫るプロジェクトなので、お許しください🎗️
1.『映画』に感じる不成立性、そして自世界の拡張
今まで、 #1の『RPG』、#2の『サッカー』ともに、僕の好きなものをテーマに置いてきましたが、今回は異なります。むしろその逆、『映画』はあんまり好きではないのです。生涯で観てきた映画の数も数えられるほどですし、放っておけば全くと言っていいほど観る習慣がありません。
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↑僕が観てきた数少ない映画たちの中でも、なかなか凄かったもの。
簡単に言えば、映画が持つ娯楽としての性質と、僕自身が持つ特性やら感覚やらの相性が合わないということだと思いますが、そこには少し複雑なものが渦巻いている気がして、敢えてテーマに据えることにしました。全然まとまってないですが、折角なので一緒に考えてくれたら嬉しいです。
まずは、僕が映画に対してよく感じるモヤモヤを何とか説明してみます。
①メッセージの重さ
映画って、やっぱりメッセージが在るんですよね。戦争がどうとか犯罪がどうとか、そこまで行かずとも、人間はどう在るべきか、社会はどう在るべきかなどの結構、重いの。勿論、楽しいだけ/面白いだけの映画もあるでしょうけれど、2時間もの間に無数のキャラクターが往来し、無数の会話が展開し、現実の社会と紐づきながら、新幹線のようにストーリーは風を切っていく。そうしてエンドロールが流れたら、「さぁあなたはこの問題をどう解く?」と、宿題のように与えられて終わる。僕にはそんなイメージがあります。
娯楽なんですから適当に観流してもいいはずですが、 なかなかそれはできません。どうやら僕は、”目の前で起きていること”に対しての没入度が高いようです。現在、色々と環境が変わっていく中で、優先順位が低いと判断できるようなタスクや景色にも、正面から取り合ってしまう傾向があることをより自覚しつつあります。
よく聞く言い回しだと、”距離が近い”ってことなんでしょうけど、僕はあまりこの表現が好きではありません。何というか、そういう次元の話ではないんです、きっと。
②時間
次に、これはなかなか伝えるのが難しそうですが、その娯楽を摂取するのに掛かる”時間”というものが、僕と娯楽を語る上での一つの物差しのような気がしているのです。
例えば、まず”時間”の短い音楽、お笑いのネタ。一曲聴くだけなら、3分から5分くらい。ネタなら長いのもありますが、一般的には数分、長くて10分20分。あっという間ですよね。これくらいの時間なら、何というか自分の中にスッと入ってくる感覚があります。仮にその数分の中でよく分からないことが出てきても、瞬間的に感覚的に燃えて散っていくというところに、ある種の芸術性が宿っているとは思えるので、「まぁそういうもんだよね」と概ね咀嚼することができます。
例えば、逆に”時間”の長い連続ドラマ、シリーズものの作品、ある程度連載されていた漫画。これらも、摂取し進めていくこと自体の労力は別途感じますが、ずっとその作品と付き合うことによって、どんどん世界観が自分ごとになっていくという感覚があります。こうなると、また自分の中にスッと入ってくる気がするのです。
余談かもしれないですが、『ONE PIECE』みたいなものが何故感動するのかというのを個人的に考えたりしてるんです。ああいう長期連載作品って、どうしても時間や期間みたいなものが面白さを増幅させている気がするんですよね。伏線みたいなものも読者のリアル年月経過が伴って回収されるわけで、そこに幾らかのマジックがあるような。だから、”時間”って何かしら作用を及ぼしているのではないでしょうか。
①で述べたことと照らし合わせれば、2時間という半端な”時間”との相性が悪いのかもしれません。
「わからないものだよな」と諦めるわけにもいかず、かと言って「わかろうとするにはまだまだ足りないな」という感じ。そういう混乱した状態で、自習室に閉じ込められ宿題を課されると、生活が回らなくなってしまいます。「あぁご飯作らないといけないのに……」、「お風呂に入らないといけないのに……」。そうして僕の生活には、『映画』というものがなかなか入り込まなくなっていきました。
③「だから何?」
①と②を踏まえて、敢えて抽象的に整理しようと思います(迷惑?)。
こうなってくると、映画を観たあとにはよく「だから何?」と感じる場合が多いんです。交差点のようにすれ違うわけでもなく、かと言ってじっくり話して関係を構築していけるわけでもなく、急に現れては意味深な脈絡の話を中途半端に残して去っていく。リアリティを伴っている風に見せかけて2時間でショーは終わり、その半端さはよりフィクションであることが透け透けの白々しさもあるようなないような。
僕に何をして欲しいんだろう?
そうして、この体験を一体どのフォルダに収納すればいいのか分からないまま、自宇宙の中をぼんやりと漂ったのちにどこかへ消失していったり、或いは消化できない異物として臓器と臓器の間に挟まり続けるみたいな、何とも言えない感覚になるのです。
これは、単純に映画というものに慣れ親しんでいないということでもあると思います。音楽やお笑いに関しては、物心が付くか付かないかの頃からたくさん摂取してきて、こういう形式の体験を得たらこのフォルダに収納して咀嚼する、みたいなシステマチックな流れが発達しているんだと思います。
とはいえ、やっぱりそんな簡単な話でもない気がしていて、こうしてテーマに選んだというところに立ち返ります。矛盾していることが多々あるかもしれませんが、これらをスタートライン/叩き台/データのひとつとして、何かに繋がっていけば嬉しいところです。
以上、僕が映画に感じていること、分析できること、今までなんとなく避けてきていたニュアンスでした。
そして、これからも映画というものが自分の中心に来ることは流石になさそうではあるのですが、冒頭でも書いた通り、今現在、自分の環境や心境には変化が訪れています。簡単に言えば、「今までの常同的な生活や価値観を尊重しつつも、この機会に自分という世界を拡張してみてもいいかな」と感じているのです。
敢えてこの言葉を使いますが、”自閉”という性質を持って生きていると、色々と思うところ、衝突するところがあるのです……。このことに関してはまあひと先ず追々でいいのですが、取り敢えずチャプター2では映画を実際に観てアウトプットするということをやってみようと思います!
2.『映画』を摂取してみよう!
ということで、『映画』というものを改めて摂取してみて、だらだらと何かしらアウトプットしてみようのコーナーです。今、映画らしい映画を観たときに、何を思い何を感じ、どう影響を受けるのかというところに自分でも関心があります。
今回は、そういう脈絡などを説明した上で、こくりの職員さんにおすすめの映画を紹介してもらうことにしました。他人にオススメしてもらって何かを摂取すること自体、自世界の拡張に繋がると思うので、こういう形式を選びました。
また、これらの活動は『ちゅんの自世界拡張プロジェクト』なるものに派生しながら同時に動き出しており、そちらでは映画以外のエンタメも含めて自世界拡張を図ろうと考えています。現時点では、お互いのアップロードのタイミングがどうなるか読めてないですが、良かったらどちらも興味を持っていただけたら嬉しいです。
ⓐ3時のカフェインからの紹介『ダイ・ハード4.0』
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職員「3時のカフェイン」さんから、往年のアクション映画『ダイ・ハード4.0』を紹介してもらいました。言わずと知れた名シリーズだと思いますが、僕が観たことあるはずがありません。こういう機会がなかったら、死ぬまで観なかった気さえしています。
「3時のカフェイン」さんから紹介してもらった際に、「頭、空っぽにして観てね」というガイドラインを貰っていたおかげか、普段よりは余計なことを考えずに観れたと思います。総じて面白かったような気はするのですが、それでもやっぱりよくわからない感覚もあり、不思議な気分を抱きました。以下、具体的なアウトプット。
先ずはやっぱり会話が上手すぎる。とにかくできるだけジョークで返す、一度捻ってから相手に返そうとするクリエイティブな姿勢は、日本も見習わないといけないのかもなと感じました。
そして、ここまでアクションど真ん中を突っ切られると、最早コメディだなと思いました。ニヤニヤしちゃいます。ありえないラッキーとアンラッキーが、ジョン・マクレーン刑事を襲い、相棒のマシュー・ファレルのハッキングスキルに助けられながら、最終的には敵を追い詰めていく。小細工なしのプロトタイプ直球勝負な作風に、「そうそう映画ってこうだよね」と思う一方で、「いやいやアクションしたいだけやないかい」という大きなツッコミも……。
また、1時間を過ぎたあたりの車中のシーンで、マクレーン刑事は己の運命と悲哀を淡々と語るのですが、そのセリフがアクション至上主義を体現していくストーリーの中でも少し浮いていて、印象に残りました。結局こういうバックボーンさえも、アクションに重厚感を与える演出に過ぎないのかもしれないですけどね。
上記のシーンは勿論、マシューによる車を動かすためにオペレーターに対して演技をするシーンなど、やっぱり主人公2人は特別素晴らしい俳優でした。アクションシーンとかもどうやって撮ってるんでしょうね。色々とやりすぎなシーンも多々ありましたが……笑。
全体を通じて概ね好印象な感覚を抱きつつも、とはいえ、「ここまでお金と世界を巻き込んでまですることなんかいな?」とは思いました。やっぱり、それぞれに心地よい規模感ってありますよね。僕の場合、それがとことん小さいのか、現実的なのか生活的なのか。だから、現代劇/日常劇の方が好きなのかもしれません。その分、精神的にグーっとキてしまうのですが……。
ⓑするめからの紹介『PERFECT DAYS』
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職員「するめ」さんから、2023年の話題作を紹介してもらいました。どれだけ話題になろうと僕が観るはずもないので、勿論初見です。役所広司演じる都内トイレ清掃員の平沢がただ生活する様を描いた作品です。
素晴らしい映画だったと思います。限りなく台詞が排除され、ナラティブな演出もほんの僅か、”登場人物”じゃなく”物語”じゃなく、ただそこにある”生活”を粛々と描き続ける2時間。あれこれ語ったり分析すればするほど、平沢の愛していた”自然”に人工物を投げ入れるようで気が進まないですが、少しだけまとめておこうと思います。
奇しくも、今プロジェクトと連動しているような内容でしたね。自世界を生きる平沢が、生活と心がほんの少し揺れるような人間と出来事に遭遇し、時に涙が表出したりしながらも、大衆的な評価や価値に囚われないPERFECT DAYSを送り続けていく。前述の通り、平沢の人間性を考察すること自体、極めて失礼な行為に思えますが、個人的にシンパシーがあるのと少し大事そうな観点を発見したので蛇足ながら共有します。
清掃員仲間のタカシは、平沢のことを”すごい無口”と形容しています。確かに職人気質でミステリアスな印象も受けますが、タカシがシフトを飛んだことを非難する電話のシーンや、家出してきた姪のニコとの関わりの中では、澱みなく言葉を紡いでいます。必要とされる場面や、自分が大切だと思った場面では、ごく自然に重要な会話をし、外側から勝手に大雑把に見立てられている人柄とはギャップがあるように思います。
人間って、そんな簡単に法則付けられないんですよね。ましてや、一個人が周囲から評価をされ続けないといけない生活なんてナンセンスです。作中では、自世界や自閉にこだわる生き方に対して批判的なプロットはあまり含まれていないように感じますが、そういったものへのアンチテーゼももしかするとあったのかもしれません。というか、本来その二元論のシーソーで平沢や人間を切り取ること自体が本当に虚しいことですよね。
今日だって、都内のトイレを清掃して回っているんでしょうか。誰でもないあなたが、誰でもないあなたとして、ただ生活しているということは、 神社の上に広がっていたあの美しい木漏れ日以上に豊かな自然と言えるかもしれません。
あと、車ってやっぱ良いなー。街の中に自分の部屋が出来る感じ。そういう意味では、トイレなんかもそうなのかもしれないですね。
3. ASDと映画
上記の紹介してもらったもの以外にも、映画みたいなものを少しずつ摂取するようになってきている今日この頃です。知らない世界や重厚な創作に触れることの豊かさも少しずつ感じ始め、概ね良いムーブメントを行なっている実感もあります。
ただやはり、その摂取には大きな労力と苦痛が伴うことにはあまり変わりがなさそうです。例えて言うなら、旅行ですかね。楽しく豊かな経験をもたらしてくれる旅行も、毎週毎日行うのは難しいことでしょう。一般的な人からすれば、映画一本観ることくらい隣町のイオンモールに出かける程度のことなのかもしれませんが、僕にとっては北海道沖縄海外に飛び立つようなものです。ましてや、それを強制させられるなんて……。
結局は、生活の規模感なのかもしれませんね。新しく大それたことを連続的に行う苦痛は、誰しもが覚えるものかもしれませんが、その度合いが一定を超え社会における変動性にそぐわなくなってきたあたりを、たまたま”自に閉じている”と括られているだけなのかもしれません。
そのただの違いを、”間違ってる”と言われても困っちゃうなぁ。あはは……。
また、誰でも映画を観終わったあとは、ぼーっと考え込んだりして生活に戻りづらくなったりもするでしょう。それでも、僕がこうしてとにかく生活を大事にしたがるというのは、毎日ルーティンとして行っているものが多かったり、それを崩すのが難しかったりすることに起因しているのかもしれません。一口に「んー、なんか映画って苦手だな」と言っても、水面下では様々な脈絡や感覚が紐づいていたりいなかったりするでしょうし、こうやって、一見なんでもなさそうな切り口でも、思わぬところで太い骨格にぶち当たることもあったりなかったりするでしょう。
こういう特性だと、映画のみならず何かをどんどん摂取して開拓していくみたいなことは現実的に難しい場合が多くなります。それでも、社会は「とにかくたくさんの経験をしましょう」と間接的に僕を叱ったりします。勿論そういったことも大事ですし、僕としても出来るだけ実践しようと心掛けてはいますが、ひとつひとつのことに対してゆっくり考えて触れ合っていく生き方でも別に構わないはずです。「本当の愛を知るには、生涯でたくさんの人と交際することだ」と言われてる気分です。そうとは限らないのでは?
あれやこれや言って、最終的には自分と社会との折り合いの問題に絡め取られる部分もあり寂しいですが、いい加減ちょっと文字数が多すぎました。取り敢えず、ここで一旦終わろうと思います。前述の通り、これらの活動と報告は、並行して立ち上がった『自世界拡張プロジェクト』の方に引き継がれ暫く続いていくと思われますので、そちらも是非よろしくお願いします。『ASDと〇〇』ももう少し続きますよ。それでは〜。

