ASDとVOCALOIDへのアンサー

どうも。「かんりしゃ」です。
壮大な情報量の、「ちゅん」の『ASDとVOCALOID』へのアンサーです。
まず、この量や文章感が「ちゅん」らしくてよいですよね。

「点線を実線に」が、今回の「ちゅん」のテーマだったように思います。
VOCALOIDという音楽のあり方は、「ちゅん」にとっては「実線感」を得やすいものなのでしょうね。
そうすると、この「実線」って何なんやろうところを「かんりしゃ」なりに検討し、アンサーとします。

「かんりしゃ」が推察するに、「ちゅん」は音楽のアイデアや、それに留まらず心にあるかたちにならない何かをたくさん抱えているのでしうね。
それはかたちにならず、誰かに(自分でも)みてもらえないので、あるのかないのか、何か自分でも判然とせえへんのやと思います。
けど、何かぐるぐるしたものやモヤモヤしたもの、熱っぽいものが「ある」のは確かなのでしょう。
判然とせえへんけど、確かに心の中にはあってそれを出したい感じ!
人によってはそれらを「衝動」と呼ぶのかもしれません。
それが何か外側にかたちとしてあらわれた時に「実線感」が得やすいのでしょう。

下記蛇足。
同時に、「点線」を抱えているその人の「からだ」は、まがうことなく「実線」です。
からだはその人のからだとして完結しており、点線ではありません。
けど、自分のからだと自分のとして充ちたりて感じること、このかたちとしていつくしみながら受け入れることは、なんだか難しそう。

臨床心理学は、この実態としての代替不可の各自のからだに、点線的なこころや思いとのアンバランスさをみつめる学問と言えそうです。

んー、アンサーのアンサーが必要そうな、ややこい文章になりました。以上!!

4 ASDとVOCALOID

 どうも、「ちゅん」です。気づけば、もう第4回。手応えがあるようなないようなで頑張っています。
 今回のテーマは『VOCALOID』。僕の大きなルーツの一つであるVOCALOIDは、僕の生き方さえも変えてしまいました。


1.点線が実線へ
 いやいや『VOCALOID』って何やねん、と。そうですよね。僕もしっかり詳しくはないのですが、ちょっと概要というか簡単な歴史みたいなのをまず解説したいと思います。

 VOCALOID(略:ボカロ)というのはヤマハが開発した音声合成技術、およびその応用製品等のことでして、広義にはいわゆる、『初音ミク』とか『鏡音リン』とかの人工歌唱ソフト/キャラクターのことですね。これらが開発されるまでも、平成初期の頃からパソコン上で音楽を作るDesk TopMusic(DTM)という制作手段は少しずつ開発が進み確立されつつあったのですが、2007年に初音ミクという圧倒的なアイコンが登場してからは、その間口が一気に広がったように感じます。

「MV」 千本桜 WhiteFlame feat 初音ミク
①『千本桜 feat. 初音ミク / 黒うさP』(2011年)

↑おそらくVOCALOIDで一番有名な(気がする)曲。

 インストも素晴らしい音楽の在り方だと思いますが、やっぱり歌が入っている方が多くの人に届きやすいですよね。ただ、音楽を作りたい人の全てが歌を上手く歌う技術と環境があるとは限りません。そんな、「作りたい曲があるのに」、「浮かんでいる曲があるのに」、という想いを救ったのがVOCALOIDでした。クリエイターの魂が籠もった歌をVOCALOIDは代わりに歌い上げ、その革新とカルチャーは瞬く間に多くのリスナーを生み出すことになります。

 それまでの音楽スタジオに入り浸るような制作手段から解放され、クリエイターたちはワンルームのパソコンからこっそりでありながらもだからこそ熱心に曲を作ることが可能になりました。それまでは社会にそんなもの存在しないとされていたアイデアの芽たちが、どんどんVOCALOIDの力を借りて花開き、”点線の音楽が実線に”なったのです。

Chinozo ‘グッバイ宣言’ feat.FloweR
②『グッバイ宣言 feat.flower / Chinozo』(2020年)

↑僕はあんまり好きではないのですが、近年かなり流行った曲。驚異の1.4億回再生。

 だから、僕にとって初音ミクに勝る歌姫なんて居ません。彼女以上にクリエイターとリスナー両方の命を救った歌手が居るでしょうか。



2.VOCALOID曲が持つ音楽性の分解
 ここからはVOCALOID曲が持っている音楽性みたいなものを分解してみようと思いますよ。何となくザザザーっと要素を羅列していったあと、既存の曲を紹介しながら照らし合わせてみたりもします。とは言え結構主観が混ざってるので、悪しからず。

[1]ボカロ性
 おそらくパブリックイメージとして定着してるであろう、所謂ボカロっぽさです。早口で捲し立てたり、難解な言葉を使ったり、世界観を強く打ち出したり、ブラックな表現を使ったりなど、言ってしまえば中高生が喜びそうな音楽性です。

[2]平等性
 ハイブランドの機材、業界的なコネクションなどがなくとも、曲を制作することができ、それが成立すると言った要素です。

[3]天才性
 メジャーシーンの中に溶け込むには、才能以外の外交的な能力もある程度求められたりしますが、ボカロ界には才能一点突破の天才がゴロゴロいます。

[4]削命性
 ボカロシーンには、良くも悪くも追い詰められている人が結構居ます。そんな人が等身大で綴った曲は多くのリスナーの胸を打つことがよくあります。「曲を書かないと気が狂いそう」といったような命を削っているかどうかを、変な言葉ですが削命性としました。

[5]洗練性
 以下、3つは結構似ていると思いますが、一応分けてみました。
 メジャーシーンの音楽は、音の数が多かったり、ミックスの技術が高すぎることによって、逆に音と音の境界が曖昧で実体が掴みづらいこともあったりしますが、ボカロ界では等身大ですっきりした曲にも出会えます。シンプルイズベストってやつ?

[6]原石性
 これはなかなか説明しにくいですし、ただの僕の思想かもしれません。要は、色々と技術を覚えたり権威的な環境に囲われたりして記号的な宝石に収まってしまうより、粗っぽくてその人自身が見え隠れする原石のままの方が良くない?みたいなことです。どうしても、磨かれていく過程で削ぎ落としてしまっているものに目が向いちゃうんですよね。

[7]純粋性
 ボカロシーンには、曲をヒットさせて生活をしようなどといった音楽にとってある意味邪念とも言えるような魂胆を全然持ってない人もちらほら居ます。純粋に音楽延いては自分というものを突き詰めている曲は聴いていてカッコ良いです。

 おそらく一般の方がボカロと聞いて思い浮かべるイメージは[1]のボカロ性がほとんどではないでしょうか。ボカロシーンにはボカロっぽくない曲もたくさんありますし、何なら僕はそっちが本流というか本質的な気さえしてます。ということで、これら色んな性質を持った曲たちをいくつか紹介したいと思います!


Kikuo – Sea Is
③『Sea Is feat.初音ミク / Kikuo』(2015年)
[2]平、[3]天、[5]洗、[6]原、[7]純あたり?

↑ちょっとこの曲は凄すぎますね。凄すぎて意味わかんないので、是非聴いてみてください。


鏡音リン / スプリンクル(Sprinkle)
④『スプリンクル feat.鏡音リン / ライブP』(2014年)
[5]洗、[6]原、[7]純あたり?

↑もろもろ編曲のクオリティなどかなりプロレベルですが、商業的ないやらしさがなく、美しくまとまっています。これだけ素晴らしい曲でもあんまり有名ではなく、ボカロシーンではこういう現象がよく起こります……。


wowaka 『裏表ラバーズ』feat. 初音ミク / wowaka – Ura-Omote Lovers (Official Video) ft. …
⑤『裏表ラバーズ feat.初音ミク / wowaka』(2009年)
[1]ボ、[2]平、[3]天、[5]洗、[6]原、[7]純あたり?

↑VOCALOID曲の金字塔。米津玄師もwowaka氏の曲を聴いた時、 あまりの衝撃にご飯が食べられなくなったそう。ボカロっぽさの祖とも言えるwowaka氏ですが、2019年に急性心不全により亡くなりました。


siinamota / 椎名もた – Goodbye Everyone / さよーならみなさん
⑥『さよーならみなさん feat.GUMI / 椎名もた』(2015年)
[1]ボ、[2]平、[3]天、[4]削、[5]洗、[6]原、[7]純あたり?

↑椎名もた氏も本当に天才だったと思います。時に危うさを秘めながらも精力的に曲をリリースしていた中、2015年に20歳の若さで亡くなりました。そのバックボーンに何があったのかは分かりませんが、今でも椎名もた氏のことを思い出して胸が切なくなります。



3.VOCALOIDに対しての所感
 ここまで色々と僕なりにごにょごにょ分析してますが、ここでVOCALOIDというものに対しての個人的な所感を記しておこうと思います。偏った感覚を垂れ流すことになりそうですが、VOCALOIDだけに留まらない大事なことにも繋がりそうな気がしています。

 さて、どこを切り口にしようかなといった感じですが、まず、僕の敬愛する『みきとP』というボカロP(今更ですが、VOCALOIDを使用して曲を作るアーティストのこと)について。僕がVOLALOIDを聴くようになったきっかけの人で、大きく影響を受けました。


みきとP 『 僕は初音ミクとキスをした 』 MV
⑦『僕は初音ミクとキスをした feat. 初音ミク / みきとP』(2013年)

↑この曲を聴いて雷が落ちました。「VOCALOIDでこういうロックをやっていいんだ」と。

 この曲自体が、曲を作るということとVOCALOIDのことを美しく描いていますね。このコラムで言いたいことのほとんどのような気もします。何にせよ、0が1になりそれが膨らんで実体を持つということは凄いことであり、凄いことでありながらもごく当然にそれを行うことができる環境がもっとあればいいなと感じます。

そこからみきとPはほぼ順調にキャリアを重ね、2022年にはこういう曲を発表します。


みきとP『 E S P R 』MV
⑧『 E S P R feat.星尘 infinity / みきとP』(2022年)


 シャープなセンスで非常にカッコいい曲ですね。この曲はレコーディング風景のドキュメント映像も併せて公開されており、そこでは一般的に流通している曲とほとんど遜色ない規模感で制作されていることが窺えます。楽器系はプレイヤーの人にある程度任せつつ、みきとPも監督に近い立場で調整に加わっていく形です。この映像を初めて観た時、プロたちの洗練された仕事に感動しつつも、「いやVOCALOIDでここまでやっちゃうんかい」という疑問は拭えませんでした。

 みきとPは元々バンド畑出身の方なので、当初からどれくらいDTM全開の制作環境だったかは分かりませんが、アーティストとしてのキャリアを積んでいく中で仲間と出会い、よりハイクオリティな制作環境を志向するようになっていったという流れは少なからずあると思います。勿論それで全然構わないんですが、一方で「そこまでしてVOCALOIDに歌ってもらう意義って何なんだろう?」とも感じるんです。これほどの環境を構築できるのであれば、優秀なボーカリストにもオファーできるでしょうし、実際に生身の人間に歌ってもらっているバージョンもあります。どれだけ職業ミュージシャンとして大成しても、VOCALOIDへの愛は変わらないという表明なのかもしれないですけど、境遇上もうVOCALOIDを使う妥当性がないのにノルマ稼ぎとしてVOCALOIDを使っているのであればそれはそれでどうなんだろうというか……。まあこんな感じで、すごく嬉しいよう
な、すごく寂しいようなで複雑なんですよね。曲自体は超カッコいいので尚更。

 こういう「VOCALOID(にこだわること)とは何なのか」みたいなものにドデカい一石を投じたのが、ハチ(米津玄師)の『砂の惑星』でしょう。


ハチ – 砂の惑星 feat.初音ミク , HACHI – DUNE ft.Miku Hatsune
⑨『砂の惑星 feat.初音ミク / ハチ』(2017年)


 新進気鋭のボカロPからスタートし名を上げたあと、段々と本人名義の活動にシフトしていた米津玄師が、突然”決別”ともとれる内容のVOCALOID曲をアップしたのです。実際は、マジカルミライというVOCALOIDのイベントのために米津玄師が書き下ろした曲でして、本人も色々考えた上で制作したようです。
 ボカロ界を”砂の惑星”に例え、”あとは誰かが勝手にどうぞ”という歌詞を筆頭に、彼なりの(おそらく)激励が描かれたこの曲は大きな議論を呼びました。

 細かいところに関しては一旦省きますが、VOCALOID使用に対しての明確な表明を行ったのは、形はどうあれ米津玄師の最大限の愛だったように感じます。こうしてある意味でピリオドを打つことも誠実でしょうし、変わらずにずっとVOCALOIDを使うことも誠実でしょうし、解釈は分かれますね。


 とまあVOCALOIDに託しているものがそれぞれ異なるんです。カウンターカルチャーとして始まった歴史を汲んでいる人もいれば、シンプルにひとつの楽器的アプローチとしている人もいて様々です。

 個人的に僕は、ボカロシーンが潤ったり、そういうアーティストがバンバンお金を稼いだり、メジャーシーンの中で受け入れられたりみたいなことは正直どっちでもよくて、曲というものを作りたい人が実際に作ることができる環境が維持されればそれでいいかなと思ってるんです。チャプター1で触れた”点線が実線になる”みたいなことはそういうことで、僕にとってはそこに「VOCALOID」というものが在ると思っています。まぁこれも様々ですね。



4.ASDとVOCALOID

【巡音ルカ】ダブルラリアット【Double Lariat】【HD】
⑩『ダブルラリアット feat.巡音ルカ / アゴアニキ』(2009年)

↑本当に素晴らしい曲です。

VOCALOID自体に関しては、チャプター3で大体言えました。ここからはどうASDと繋げようかなと言ったところですが、やっぱり”点線が実線になる”を深掘りすることになりますかね。

 僕(/ ASD者)は表情や言動の顕現が比較的弱い場合が多く、また変化や決断に多大なるコストがかかるために人生に於いてのキャリアをずんずん押し進めていったりすることもあまりできません。その結果、外側/社会からは「何もない」と観測/結論付けられることもしばしばです。傍から見れば、「何も表さない(ように見える)」「何もしていない(ように見える)」のでその評価になることはしょうがない気もしますが、本来は全然そんなことないんですよね。これはASDに限らず、社会的マイノリティの人たちにも当てはまることのような気がします。

 その中で、「いやいやあるんやで」と示すことができるもののひとつが音楽だったりしますが、この音楽でさえも社会的階級やコネクションと連動しているためになかなかスムーズではありませんでした。そこから時代と技術は進み、市井の僕たちにも少しずつ作曲みたいなものが身近になってきました。実際はDTM環境を整えるためにも多額のお金がかかってしまうので、そういうところからまだまだ脱却できてないわけですが、少なくとも以前よりかは平等に近づいたと言えそうです。
 そういう見る角度を変えたり環境が整備されたりすることによって、「ない→ある」になるという考え方の根幹/象徴が、僕にとってVOCALOIDなんですよね。あの日、VOCALOIDと出会ってからずっと、じんわりと自分の中の大事なフィロソフィーになっていきました。まあもっと言えば、その前段にある「そもそも何もなかったらダメなのか?」という大きな疑問もあるんですけどね。


 少し逸れますが、こくりのインタビュー企画『MuSuBu 第1弾 石田卓也さん』

に於いて、心理シの石田先生も似たようなことを仰ってくれています。
「ある」ということの根拠を、「常識的に確固たる生産を順調に続けている」ということのみに限定してしまうと、多くのものが見えなくなってしまうように思います。

 そしてここから更に発展させれば、「現実」って何なんだろう?というテーマに飛躍します。例えば、個人の頭や心の中だけにある思いや考えは、実際に外側へ向かってカタチ化されないと存在していないのでしょうか?

 そして、そのカタチ化も現状の社会がどれだけサポートしてくれるかによって難易度が変わり、そうして生まれたカタチを評価する時でさえも現状の社会に浸透している暫定的な規範や常識に照らし合わせて行われるでしょう。

 かなり極端でデカい話になってきてはいますが、何にせよ、何が「現実」で、何が「存在」で、何が「あって」、何が「ないか」、なんて一概には言えないのでは?ってことです。これらの話は結構「障害」みたいなものにも関わってくるのですが、流石にデカすぎるテーマなので今回は一旦ここで筆をおくことにします。

 ということで、本当に長いコラムをお送りしました。回を追うごとに分量が増えてきており、これは良くも悪くもですね……。ただ、毎日ありのまま生きているだけなのにこれだけインプット/アウトプットが膨れ上がってしまうということにも、僕(/ASD)の特性が表現されているとも思うので、そもそもそういう狙い/コンセプトだったりします。
 次回か次々回ぐらいがラストですかね。変わらずぼちぼち頑張ろうと思います〜。